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『失われた景観』リレーコラム 都市の鼓動第36回 

                                   岩手大学教授 藁谷 収
 岩手大学キャンパス西端の国道46号線から小道をぬけ、森の中に入ると、春にはマンサクの黄色の花、紫のスミレと続き1年を通して多くの花を観ることができ、カッコウやリスにも出会うことのできる岩手大学附属自然観察園はここにある。古くは宮沢賢治が学び、ここで、二首の短歌を詠んでおり、賢治と学生5人の写真プレートが整備されている。自然観察園の前身は盛岡高等農林学校時代の植物園であり、その歴史は創設時(1902年)まで遡る。園は農学部から学芸学部(現在の教育学部)に移転用地として提供され、初めは農学部の管理下にあったが、その後教育学部の管理下となり現在は岩手大学まるごとミュージアムとして位置づいている。植物園時代からの樹木・灌木がそのまま残されていたところから、自然観察園(通称「学芸の森」)として多くの市民と学生に親しまれてきた。園内施設として教育学部附属教育実践総合センター(1979年)と教育学部3号館(1981年)が相次ぎ竣工し、自然観察園の管理も、できるだけ自然に任してきたが、台風(1981年)等の直撃もあって、多くの樹木を失う被害も受け、園の様子は大きく変わってしまった。

昭和40年代この園に、一人の画家がキャンバスに向かって立っていた。
画家の名は小笠原哲二
小笠原は、二戸市生まれ、盛岡に住み、盛岡をこよなく愛し、多くの透明感のある風景作品を描き続けた。移り変わる四季折々の空気をその場で感じ小笠原独自の色彩で、画布に丹念に描き込んでいき、1980年に筆を置くその日まで、小笠原の姿は寒い朝の街角や、夕暮れに染まる公園で、よく見かけることがあった。透視図に精通した技量を基に置いた構図は、今でも見るものを盛岡の懐かしい思い出に誘う。ボナール、マチスに啓発した色彩は輝くばかりの空を紫色に染め、公園の石垣、街角に残った銀行、教会や岩手の山々を確かな厳しい目で、何度も繰り返し表現していった。

数ある風景画の中に、園内(自然観察園)からのぞいた作品が残されている。砂利道であろうか46号線が画面を横切りその向こうには畑が広がる。主題の教会はポプラを脇に描かれている。季節は晩秋、長閑な西下台風景であり、宝石の様な作品である。
小笠原が立った位置を探し求めて園内を歩く。フェンス越しの風景はマンション、スーパーマーケットや新しい住宅が立ち並び、絵から伝わってくる臨場感は全く感じられない。朽ちかけたニセアカシアが時間の経ったことを伝える。40年余りの時間の中で、街は便利な開発を成し遂げて行った。しかし失われた想いは計り知れない。これから盛岡らしい景観は何処に行くのであろうか。画家が立った場所は間もなくキクザキイチゲの花が咲く季節を迎える。
IMG_0345.jpg  I-13-400-1.jpg 36kai.jpg

* 自然観察園の概要(Hiこちら岩手大学vol.1 文責 藁谷収 2005年より引用)
*図版出典 追想の小笠原哲二展実行委員会 1981年

『県都・盛岡に期待する』 リレーコラム都市の鼓動 第35回  

北田 節男 NPO都市デザイン総合研究センター 理事

春の陽に誘われ片づけしていた物置で黄ばんだ新聞を見つけた。昭和26年8月10日付(60年前)の地元紙で「県都建設に要望す」と題す社説が載っていた。そこでは「市民の意見調査、盛岡市の機能調査、近郊調査」などを提案し、「広告に対する制限、広義の史跡保存、各種記念建造物のあり方」などを勧告していた。何か、今日的な課題とダブり鮮明な記憶として残った。
 今年、盛岡市は市制施行120周年を迎え、これまでのまちづくりの歴史を振り返りながら「未来を開く元気なまち盛岡」をキーワードに諸施策の展開を図るという。
県庁・市役所等の官公庁が集積する「盛岡城」跡を中心に広がった市街地は、戦災を受けなかったため城下町開府以来の区画が多く残されていた。「昭和45年・岩手国体」(1970年)を機に、県内各競技場と結ぶ道路や競技会場周辺の国体関連施設の整備が集中的に行われ、さらに、東北新幹線・東北縦貫自動車道・花巻空港へのジェット機就航などの高速大量交通時代に対応した「県都・盛岡と県内の主要な広域生活圏中心都市を90分で結ぶ総合的な交通網の整備」や東北新幹線の八戸延伸・秋田新幹線の開通など、拠点性機能をたかめながら街の姿かたちを大きく変えている。
 そんな折、「老朽化している県営総合運動公園陸上競技場を第二種公認に向け改修すること」について、岩手県と盛岡市の考え方に相違があり波紋を広げている。第1種公認の見送りは事実上2016年開催予定の二巡目・岩手国体の主会場から外れる可能性を意味しているのだという。盛岡市側は「交通・宿泊・役員・練習施設などが充実していること。大規模競技場として整備し、Jリーグやラクビー世界選手権の開催も視野に子供に夢を与えたい」と力説する。また、岩手県側は「財源を選手強化に集中し県営運動公園内にドーム型練習場を新設し、冬場の練習環境改善やスポーツ医学の導入など全競技共通の課題克服を図り、広く開放し生涯スポーツの拠点にもしたい」と説明している。
財政の厳しい情勢下ではあるが、「昭和45年・岩手国体」に合わせに整備された道路・橋梁のインフラや国体関連施設も、既に築40年を経過し厳しい気象条件下の劣化や経年変化による老朽化が進み、速やかな補修が求められている時代でもある。
国体の主会場となる開閉会式会場の決定は、国体準備委員会の調査・検討を経て、5月下旬に決定されるという。その間、中核市に移行した新生盛岡市には、県都機能の充実を図り北東北の交流拠点都市として大いなる飛躍を目指し、もって県全体の発展を誘導するためにも、盛岡広域生活圏内町村との連携・調整はもとより、県内市町村の理解を広く得られる努力を尽くし、卑しくも地域エゴ丸出しの批判を受けることのない施政を期待する。
県営運動公園

『岩手公園(盛岡城跡公園)』リレーコラム都市の鼓動 第34回 

寺井良夫
 岩手公園(盛岡城跡公園)は城下町盛岡のシンボルである。市民の憩いの場であり、多くの観光客が訪れる名所のひとつでもある。旧岩手県立図書館建物を活用した歴史文化施設の整備が始まり、平成23年度には新たな魅力拠点が誕生する。この機にあわせて、公園全体にさらに磨きをかけていくことを期待したい。この公園の特徴は、①石垣、②著名な先人の記念碑、③紅葉、④中津川にある。こうした特徴を際だたせることで公園の魅力を一段と高められる。
【石垣】花こう岩が豊富に産出した土地であり、盛岡産のその石を積んだ石垣は美しく見事である。昔は子ども達が良く石垣をよじのぼって遊んでいたと聞く。良い時代だったと思う。今の子ども達にもそんな体験をさせてあげられないだろうか。市民ボランティアの手で、子ども達の石垣のぼり体験プログラムに取り組んでみたい。ついでに石垣の草取りもできれば、さらに石垣美を増すことにもつなげられる。
【記念碑】石川啄木、宮澤賢治、新渡戸稲造、原敬など盛岡ゆかりの有名な先人の碑が勢ぞろいしている。観光客の一番のお目当ては啄木の歌碑。不来方のお城の草に寝転びて 空に吸はれし 十五の心。この歌碑を見れば、そこに啄木への思いが膨らむが、辺りに寝転びたくなるような草は生えていないし、空を見上げれば電線が頭上を通り、何とも味気ない。草を植えるスペースはなくても、電線を地下に埋めるなり、樹木の枝を少し払うなりして、空を見上げて瞑想にふけりたくなるようなしつらえがほしい。
【紅葉】この公園は桜よりも紅葉の方が見応えがあると思う。二の丸、三の丸、本丸にかけて真っ赤に色づくモミジ、風の強い日に雪のように黄色の葉を落とすイチョウ、燃えるようなオレンジ色のサトウカエデなどがおすすめだ。七五三シーズンにあわせて公園の外周を巡る馬車は、石垣と紅葉を背景にとても絵になる。秋が深まってからは落ち葉を利用した焼き芋体験が行われるようになった。こうした秋を楽しむ催し物をもっと増やしたい。
【中津川】公園と中津川とをいかにつないで、溶け込ませるかが重要なところである。川沿いに並ぶ電柱や公園と川の間の観光バス駐車場は、一番のビューポイントの景観を損ねており、できればなくしたい。中津川の河川敷では良くイベントが開催されるが何かと不便である。電気や給排水、トイレなどの設備が公園側にあるとイベントが開催しやすくなり、芝生広場まで広がりを持たせたイベント開催も可能となる。
 欲を言えば、まだまだきりがないが、市民の財産であるこの公園を市民みんなの手で育てあげていきたいものである。
啄木歌碑付近の電線  34回


『観光と地域づくり』  リレーコラム都市の鼓動 第33回 

                NPO都市デザイン総合研究センター理事 村上 功(技術士)

観光赤字国といわれる、日本が観光立国の実現をめざしている。昨年「観光立国推進基本法」が成立し、10月には観光庁が発足した。
日本の観光の市場規模は、平成18年度で23.5兆円となっており、対GDP比5%弱を占めている。このうちの約7割は、国内宿泊旅行といわれている。
地方は経済危機によって、税収が直撃されている。これまで地方交付税が大幅に減額され、財政状況が悪化しているところに追い打ちがかかった格好だ。外需に依存し、わが世の春を謳歌してきた日本にとって、大きなツケがまわってきたことになる。今後は、これまでの反省を踏まえ、他力に過度に頼らない、内需への転換を図ることが喫緊の課題となっている。
こうしたなか観光資源を多くかかえる、地方の浮揚策として、観光振興の重要性が増しているといえる。観光振興は、岩手県にとっても大変重要な課題である。世界遺産登録を目指している平泉や陸中海岸および十和田八幡平国立公園など、風光明媚な質の高い観光資源や物産が多く存在している。しかし、これらの地域にとって有用な資源が地域振興に十分役立っているとは、必ずしもいえない。
観光統計
(出所:岩手県統計データ)

図は、平成14年から18年の5年間の県内の観光地別の客の入込み数の推移を表したものである。これを見ても分かるとおり、近年は停滞傾向にある。過去10年間にさかのぼってみると、平成9年から18年の間の入込み数は5%減少している。
P3210054.jpg

「岩手の代表的観光資源 浄土ヶ浜」

観光を軸とした地域振興の成否は、道路や鉄道、空港といった交通ネットワークと密接に関係している。図で分かるとおり、観光客は北上川流域に集中し、沿岸部への人の流れが十分つながっていないのが現状である。
県北・沿岸地域の振興を推し進めるためには、交通ネットワークの整備水準を高め、広域観光に対応した移動の円滑化を図ることが不可欠である。
また、これらに加えてソフト面での対応策が必要である。このもっとも象徴的なこととして、あげられることは宮崎県の東国原知事のPR作戦である。氏はメディアをフルに活用し、独自の素養をいかしたPRが功を奏している。
わが県において、同様のことはできないとしても、地道なPR作戦は、岩手県人の得意するところではないだろうか。
例えば、企業の協力をえるPR手法である。企業などが出張等で他県に出向く場合、自治体や観光協会等が用意した観光パンフレットを、取引先で配布してもらうのである。こうしたことによって、岩手に興味をもってもらう機会をつくり、来訪者を増やすことも一考する余地がある。地域がよくなれば、地元の企業にとっても消費の拡大など多くの好循環が期待できる。
個人や企業など立場はさまざまでも、地域をおもう気持ちは同じ、社会の一員にかわりない。
これ以上、地方の地盤沈下を起こさせないためにも、衆知を集め“協創”の精神に基づいた地域づくりシステムがいま求められている。
33回

『「観光客」は存在しない』 リレーコラム都市の鼓動 第32回 

                                        服部尚樹(行政書士)
 最近、耳にしたコトバ。
「こんなに景気が悪いと、観光客は来ない。」
 ほんとうに、そうでしょうか?
先日、複雑系論で著名な経済学者の西山賢一先生が盛岡にやって来ました。先生は、NPO関係の、あるシンポジウムの講師に招かれたのですが、「盛岡は、初めてです。」とのことでした。
しばらくして、先生からメールが届きました。
「盛岡は夢のような時間でした。お会いしてから盛岡を離れるまでの時間を、いとおしく振り返っています。」
盛岡を気に入ってくれたらしく、ホテルから撮った岩手山の写真などを、先生はご自身のホームページに掲載されていました。期せずして先生は、盛岡の観光客になってくれたのでした。
先生のメールの結びは、こうでした。
「盛岡はずいぶん近いことがわかりました。また出かける機会を作りたいと思います。」
先生は、盛岡観光のリピーターになりそうです。
こうやって、盛岡に住む人の身近な知り合いが盛岡観光の観光客になっていきます。これまでも盛岡人がどれだけ、知り合いを観光客に仕立ててきたか、その数字は隠れた統計数になっていると思われます。
それで思いついたことがありました。
「観光客」は存在しない――――。
ところで、西山先生のシンポジウムでの講演はとても興味深いものでした。企業とNPOの協働による社会貢献事業が求められている現代社会で、協働を成功させるキーポイントは「ノットワーキング」だと言います。
「ノット」は「結び目knot」のことです。何かの事業で連携を成功させるには、即興的に関係を作ったり、壊したり、作り直したりする人の「結び目」が大事になる、という考え方でした。お互いに同じモノを共有しているという意識を持ちながらも、現場での具体的な解釈ではお互いに異なっていてもいい。大まかなところで一致していればいい。そして、お互いに「先読みをする、手の内を見せ合う」という作業をすることで円滑な連携が生み出されると。
この講演を聞いて思ったのですが、人が街で交流し合うのも同じです。何かの交流を成功させるには、即興的に関係を作ったり、壊したり、作り直したりする人の「結び目」が大事になる。
さて、「観光客」という人々が県外のどこかに存在しているわけではなくて、みんな何かのご縁に導かれて盛岡にやって来ます。その方たちが「観光客」と呼ばれる。
「観光客」というものは、どこにも存在しないのです。
「観光客」が存在しないのですから、「観光客」に来てもらおうとしても、それは難しい作業になります。いない人をターゲットにすることは困難だからです。
ならば、「観光都市・盛岡」は、何をターゲットにするべきか?
そうです。人のつながりを結びつける「結び目」になる人たちが、誰か特定の知り合いを呼び寄せる、そういう動き(ムーブメント)こそ、大事にすることです。
伝わっていますか?
たとえば、イワクラ(磐座)学会という集まりがあります。毎年、各地で学会のイベントや研究会を開催しています。各県の巨石遺構のフィールドワークの研究成果を交流し合っています。学会の会長は、お隣の秋田県角館出身の建築家・渡辺豊和先生です。盛岡には巨石遺構がたくさんあります。巨石遺構に興味がある人を通じてイワクラ学会のイベントを盛岡で仕掛けるのです。
 景気が少々思わしくなくても、人は大事な用事にはお金を使います。
「観光客」とは、大事な用事で来た人の、結果としての統計上の表現なんです。
観光客なんて、初めからどこにも存在しません。
人は別れてから初めて知ります。あの方が大事な人であったことを。
街は来訪者が去ってから初めて知ります。あの方が観光客であったことを。
盛岡市遠景  32回

『コンベンション都市と盛岡はいうが』 リレーコラム都市の鼓動 第31回 

NPO都市デザイン総合研究センター理事長 岩手大学教授 竹原明秀

 研究者は新たに得られた研究成果を携え,毎年のように全国各地で行われる各種集会や学会,研究会,会議などに出席する。そこでは全国から数多くの研究者が集まり,最先端の研究成果や得難い情報を共有し,同胞の近況を知ることができる。さらに開催地の地酒や郷土料理を飲み食いし,近郊の観光地を巡る。
 研究者はいつも研究室に閉じこもり,難しい顔をしているわけではない。多種多様な情報を得るために,営業マンのように動き回る。さらに得られた成果を社会に還元しなければ研究者として認められない風潮が強まっている。そのために好む好まざるとにかかわらず,各種集会や講演会などに積極的に出席しなければならない。近年,研究者のかかわる集会数や参加者数は増加しており,景気に左右される企業の展示会やイベントなどとは異なる動きがある。
 コンベンションというと一般の方は,企業の展示会やコンサート,スポーツ大会などのイベントを思い浮かべるかもしれない。しかし,研究者が主体の集会も重要なイベントである。駅前広告塔に○○学会全国大会と掲示されても,関心を持つ方はほとんどいないと思われる。一般の方が直接,かかわることは非常に少ないが,各種集会が開催されることによって開催地には億という単位のお金が落ちる場合がある。交通,宿泊,飲食,土産購入,施設使用,印刷など,一連の連鎖によって経済波及効果は極めて大きい。そのため,「コンベンション」は新しい産業として位置づけられている。
 さて,盛岡市はコンベンション都市として成立しているだろうか。盛岡観光コンベンション協会のホームページには,コンベンション都市として成立させる三つの基本的要件が挙げられている。その三つとは①交通のアクセスが良いこと,②会議イベント施設・宿泊施設が整っていること,③観光地・土産品・郷土料理等の観光資源が豊富であること,である。盛岡市はすべての要件を満たしており,毎年,110件のコンベンションが開催され,10万人の参加者が集まっているとされ,コンベンション都市と位置づけている。
 盛岡市において2008年度に行われる大規模な研究コンベンションは25件ほどあり,学術集会の中には5000名を超す大規模な全国大会が含まれている。これほど大規模になると宿泊施設は盛岡市内では足らず,花巻温泉や北上市に宿泊した参加者もいる。また,イベント施設は1ヵ所にまとまらず,市内分散型となり,要件②を満たせない状況となる。また,要件③の観光資源に関して,全国から来られる方々に高い満足感を与えることができるのか,今一度,検証する必要がある。とすると盛岡市がコンベンション都市として成立して理由は交通アクセス,新幹線の存在が大きいことになる。
 全国規模の集会や大会は各地方で受け,地方で開催場所が決定されることが多い。東北地方の場合,仙台市はすべての点で頭ひとつ出ており,開催地の第一候補となる。その仙台市が降りた場合,それ相応の都市が候補になり,その条件として新幹線が止まることは重要となる。
 盛岡市が仙台市の後じんから脱却し,コンベンション都市として,東北地方から最初に選ばれる都市になるためには,要件②と③をさらに充実させることが必要であろう。コンベンションは都市産業と述べたが,市民にとっては生涯学習のきっかけとなるチャンスも提供される。つまり観光都市と共に文化都市への第一歩となる。
31回写真 31回

『姉妹都市とまちづくり』 リレーコラム 都市の鼓動 第30回 

                                佐々木栄洋 博士(工学) 
財団法人自治体国際化協会によると2009年1月31日現在、全国で844の自治体が、海外の1,575の自治体と姉妹自治体(友好自治体、以下姉妹都市と省略)を提携している。表に示すようにアメリカ合衆国が最も多く436自治体、次いで中国の331自治体、大韓民国の122自治体となっているが、これ以降に、オーストラリア、カナダ、ブラジル、ドイツ、フランス、ニュージーランド、ロシア連邦が続く。わが国を取り巻く状況を考えれば、アメリカ合衆国、中国、大韓民国と結びつきが強いことは理解できるが、後に続く国々をみると姉妹都市に至る経緯や交流内容が自治体ごとに異なっており大変興味深い。一方、岩手県の状況をみると、岩手県自体はどの自治体とも提携しておらず、市町村は17市町村が27自治体と提携している。(これは、他の都道府県と比較しても多いとは言えず、東北6県中5番目となっている。)さらに相手の都市は、アメリカ合衆国が9、オーストリアが4、中国、オーストラリアが3となっており、他と比べてオーストリアの割合が高いのが特徴である。そもそも、姉妹都市は、法律上定められているものではなく、文化交流や親善を目的として両首長による提携書が締結され成立するものとされている。わが国の最初の姉妹都市提携は、1955年(昭和30年)12月に長崎市とアメリカ合衆国セントポール市の間で交わされた締結である。
姉妹都市は、自治体が行う国際交流を推進する典型的な手法の一つとして重要な国際交流施策とされており、相互理解や国際親善の推進、地域の振興・活性化、さらには国際社会の平和と繁栄への貢献に寄与するものと考えられている。
 しかし、現状はどうであろうか。人的交流や文化交流は、長年、行われてきたが、儀礼的な友好親善にとどまり、技術交流、経済交流を目論んでいるものの、実りある成果を得ることができない自治体が多い。シンクタンクのレポートに纏められるように、技術交流、経済交流が本格化した場合の波及効果はとても大きいが、自治体主導の技術交流、経済交流は難しい点があることも否めない。
そこで今一度、考えてみたいのが、「姉妹都市におけるまちづくり実務者交流」である。新しいことではないが、これまでに見られた「代表者の訪問団、視察団」ではなく、まちづくりにかかわる諸問題を解決することを目的に、政策立案者や技術者などが、ハード面、ソフト面の実務レベルの交流を行い、NPO等の民間組織が、参画方法、活動内容などについて、積極的に交流を行うのである。海外の事例を適用するのではなく、自分たちが置かれている状況とは異なる社会制度や官民のあり方などに触れることにより、行政のあり方を再考する契機となり、新たな発見や柔軟な発想が生まれる。お互いに知恵を出し合い、ノウハウを共有し、継続的な連携を試みるのである。情報ネットワークが発達した今日だからこそ、姉妹都市と連携を深めた共同によるまちづくりを展開することができる。
わが国の歴史を顧みてもわかるように、海外のまちづくりから学ぶことは多い。姉妹都市を提携していなくても実践している自治体はあるが、姉妹都市だからこそ可能になることがある。都市と都市をつなぐ姉妹都市は、それぞれの都市に住む人々の心をつなぐ、大変意義のあるものである。
表 都道府県別姉妹提携自治体数および提携件数
姉妹都市 30回



『黒部渓谷の土木構築物』 リレーコラム 都市の鼓動第29回 

                  NPO都市デザイン総合センター 理事 中村 正 
深い渓谷を切り立った山肌に沿うように走るトロッコ電車に乗る。
目前に迫る岩峰群に圧倒され、白く泡立つ激流を飽きることなく眺め続ける。
そんな中、あんな所にと思われるような深い渓流に架かる水管橋らしきものに惹かれた。緑にとけ込むような、地味だがどっしりとした存在感を示している。
0806黒部の橋 077
「サルがいる!サルだ!彼処、あそこ」指さす方を見ると、激流に架かる梯子状の吊り橋に数匹の親子らしいサルがいた。
吊り橋は、ダム建設(黒四ではない。近年造られたもの)に伴い野生ザルの移動路を分断してしまった代償としてつくられたものであることが掲示されていた。
0806黒部のサル移動橋 072
昨年(平成20年)6月下旬、飲み仲間と黒部峡谷に行く機会を得た。
年間100万人以上が訪れるという北アルプス立山黒部アルペンルート(信濃大町~黒四ダム~室堂)を経由し黒部川下流にある宇奈月温泉(黒部峡谷鉄道欅平)まで、2泊3日の物見遊山の旅である。
ほとんど『醒めんつぁん』(常にアルコールが入っている)状態の中でありながら、景色の素晴しさはさておき、国立公園に指定された自然景観地内の様々な土木施設に触れ、その多くが昭和初期~30年代につくられたものであるということを知り、先人の偉業にほとほと感動させられ放しの良い旅だった。
黒部峡谷は立山連峰と後立山連峰の間に位置し、八千八谷(はっせんやたん)といわれるほど多くの沢(全てが険しい)を集め日本海富山湾に流出する暴れ川・黒部がつくる峡谷である。
峰々は登山愛好家にとっては憧れの白馬山塊、立山山塊(北部北アルプス)であり、八千八谷は知る人ぞ知る、沢登り・ロッククライマーにとってその技量を表現する絶好の地となっている。
一方、黒四ダム、黒四発電所は、小説に、映画に、舞台にその建設秘話が描かれ、多くの人々に夙に知られている。
そんな黒部への旅は信濃大町扇沢から始まった。
ダム・発電所建設のために造った後立山を横断するトンネルをトロリーバスで抜けると巨大なコンクリート構造物の黒四ダムに出た。(黒四発電所はダム下流に景観上の配慮もあって全地下式につくられており送電線の出口しか露出していないとのことで望見することもできない)。
ダムサイトからは立山を横断する地下ケーブルカー、ロープウエイ、トロリーバス(トンネル)で室堂(むろどう)に至る。室堂からは立山有料道路(高原道路)のバス。弥陀ヶ原(高層湿原)で途中下車、木道を散策したりしてから美女平(びじょだいら・名前が良すぎる?)へ出た。ここから富山地方鉄道立山駅までケーブルカー。そして電車で宇奈月温泉へ。温泉からは黒部峡谷鉄道のトロッコ電車で黒部川本流沿いに欅平へ行った。
山岳関係者は黒四ダムを境に上流を黒部上ノ廊下、下流を下ノ廊下と呼んでいる。今回の旅行参加の密かな狙いはこのことを目認することだった。黒四ダムサイトから、黒部峡谷鉄道(トロッコ電車)から、そして本流の川原から、その山襞の険しさ、渓谷の様を眼にしたとき、「言い得て妙」と頷いた。
一方、思いがけない大きな納得は、トンネル、ダム、ケーブルカー、ロープウエイ、高原道路、鉄道、橋梁、砂防施設といった土木インフラの恩恵を痛感したこと、そして自然景観地内における大型土木構造物のありよう、風景を創ることへのヒントが黒部に在ることを知ったことである。
29回


『アーバン・ニューディール』 リレーコラム 都市の鼓動 第28回 

建築家・技術士(都市計画) 長澤 幹
一九二九年のブラックマンディを上回るリーマンショックに端を発した世界金融大恐慌に世界中が経済危機に見舞われている。各国は経済対策にテンヤワンヤだ。特筆されるのは、世界最大のCO2排出国の米国のオバマ新大統領が提唱するグリーン・ニューディールである。石油依存をグリーンエネルギー化しようとする試みだ。
反面、日本は八割が必要と思っていないのに、国民全員に一人一・二万円バラ撒こうとする。経済対策は金をばら撒けば良いと言うものではない。少子高齢化と人口減少により国力が衰える前に、この国がやるべきことはある。今の日本がなすべきことは何か?福祉は大前提だが、日本の突破口がどこにあるのかを考えるとき、「都市再生」というキーワードか浮かぶ。これは日本が一番サボってきた分野の一つだ。ヨーロッパ各国の都市に比較して、比肩できる都市は京都ぐらいだ。
 日本でも戦国時代には、工夫を凝らした街づくりが行われた。織田信長・豊臣秀吉にしても徳川家康にしても一国を築くときに防衛や防災の知恵を絞り、経済・民生面も考慮しながら、ゼロから城下町をレイアウトした。
 しかし大風呂敷といわれた後藤新平以後、戦後六〇年、大都市は闇市以来の自然発生的な流れのまま形づくられてきて、政治家は都市づくりに手をつけてこなかった。豊かになっても、日本には世界に誇る街並みというものがない。なぜか?目先のことにとらわれ、日本の将来を考えるリーダーがいないことが、最大の原因だ。さらに日本人の性格で、街づくりのような個を超えた大事業に夢を持とうとしなかった。
今、経済対策の大きな柱として安全・安心という国民の住環境に公金を振り向けて、二一世紀に世界に誇れる都市を創っていくことが必要だ。都市環境の豊かさは文明国の証しだ。世界第二位の経済大国でありながら、日本では都市機能の充実が政治の中心から外されてきた。行政も住人も、自分たちがどれだけ危ない地盤や建物の中で暮らしているかを忘れている。
近未来に向けた都市再生をやろうとすれば、アメリカのように世界中から借金せずに、中国のように農民から土地をだましとらなくても、日本は原資とニーズが国内に十分ある。唯一、足りないのは決意とビジョンだけだ。
都市再生の事業は経済の多面的な分野に大きな影響を及ぼす。災いを転じる経済対策として、子々孫々から敬意と感謝をされる「アーバン・ルネサンス・インジャパン」に取り組む最大のチャンスが訪れている。 
京都の街並 長澤

『盛岡の街造りデザイン報告、その1、盛岡駅前通り街路修景について』 リレーコラム 都市の鼓動 第27回 

                             建築家 山添 勝
これまで盛岡の街造りデザインについては関わる機会が多かった。東北新幹線盛岡開通
直前の盛岡駅前通り修景に始まり、駅前広場修景、大通りのアーケードを含む街路修景、
そして肴町アーケード街リニューアル等、である。
街路や広場のデザインについて、これまで公に説明する機会がほとんどなかった。このコラム欄はその場でもあると考え、遅ればせながらの報告をさせて頂きたい。
まずは駅前通りから。
この事業は駅前商店街の共同出資事業であった。市、商店街の理事の方々、そして私を含む各種専門家で構成される委員会が組織され、私は計画全体の設計責任者であった。。
盛岡は「杜の都」と謳われ、緑豊かな印象の街なはずであったが、ビルの乱立でその印象が薄れつつあることを私は懸念し、緑のネットワークの構築を街路を緑化することによって進めるべきと考えていた。駅前広場がその起点となり、駅前通りは始まりであるべき、というコンセプトを皆に理解して頂き、歩車道間に幅2Mの植栽帯と街路樹のゾーンを設けることがまず承認された。幅の広いゾーンは街路樹、低植栽枡、街路灯等のストリートファニチャーを余裕をもって配することが出来る。残りの歩道幅はなお5.5Mの幅を持ち、駅前歩道にふさわしい歩行空間を確保できる。そこまでは順調に決まった。
さて、盛岡の玄関口に相応しい街路デザインはどうあるべきか、についてはおおいに悩んだ。まずは路面パターンと街路灯、ガードレール等のデザイン、そしてストリートファニチャーなど、どうしたら盛岡を表現できるのか・・・。
悩んでいる最中に通りに面したお土産店のご主人から水沢の南部鉄器の鋳造元を紹介したいと申し入れされた。
鋳造会社の社長が鉄器デザイナーの広瀬氏を伴って訪ねてきた。私は当初、鉄鋳物に期待をしていなかった。錆が心配だったのである。ところが話を聞くと鋳物は錆が出にくいうえに塗装技術の進歩で雨風に晒されても長期間耐えうることが判ってきた。 
それは私の悩みが晴れていく過程と重なった。もし、鉄鋳物が使えるなら城下町盛岡にふさわしい重厚で、品位ある街路デザインが期待できる。南部鉄器の街を象徴することも可能となる。ならば鋳物で製作出来る物はすべて鋳物で実現する。街路灯、ガードチェーン、車止め、ゴミ箱、さらには路面に埋める絵タイル等。
今度は訪ねてきた社長が驚いた。いままで造ったことがない物ばかりである。「街路灯なんて鋳物で作れるだろうか」と心配気である。「電柱にくくりつけられた笠付の裸電球だって街路灯なんだから鋳物で出来ないはずがないでしょう」と私。そばで聞いてたデザイナーの広瀬氏の顔が紅潮している。
広瀬氏とその場でそれぞれのデザインスケツチのやりとりが始まった。いけそうだ!かれらは興奮と心配のいりまじった表情で帰っていった。これが南部鉄器で特徴ずけられた駅前通りデザインの始まりである。紆余曲折しながらそれらは実現した。
 街路樹の選定はもめにもめた。プロジェクトチームの植栽アドヴァイザーの橋本氏と私はケヤキを押した。駅前通りはケヤキの並木通りとなれる余裕をもった唯一の中心街路であることがその一番の理由であった。商店街振興組合の三浦理事長はねむの木をおして譲らない。ナナカマドも候補にあがった。
ねむの木は曲がり癖があるので適さない、と橋本氏。
あるとき、三浦理事長に橋本氏と帯同して「自分の道場にきてほしい」といわれ出向いた。理事長は剣道の達人で開運橋際に立派な道場をもっていた。訪ねていくと彼は居合いの稽古中で、白刃を裂ぱくの気合とともにギラリギラリ。やがてそれを鞘に収めると、にこやかな表情で我々の前に正座し、おもむろにいわく「さて、街路樹の件ですが・・・」
ふたりとも恐れ入ってしまった。橋本氏は「ねむの木の曲がり癖がなんとも良い」等とおっしゃる始末となった。
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そんなこともあり、樹種の選定は難航し、業をにやした市は小岩井農場の植物学者、野田坂氏を登場させ、彼の推薦でイタヤカエデをメインの街路樹とすることが決定した。つくずく盛岡人の緑に対するこだわりのすごさを感じさせられたものである。
路面のパターンは南部古代型染のパターンのひとつを参考にした。多少カラフルなゆえんはこの事業が商店街の共同出資事業のため、なによりも商店街にふさわしい賑わいの演出が必要と考えたからである。
 完成1年後、リフレッシュされた盛岡駅前広場とともに新幹線の開通を華やかに迎えることになる。
27回

『都市の秩序Ⅱ』 リレーコラム都市の鼓動 第26回 

                             北海商科大学教授 工博  安藤 昭

 前回は、一見無秩序にみえる国や地域における都市の人口規模の間にはかなり明確な秩序があることについて述べた。ところで、都市を人口規模によって分類すると、ヨーロッパの多くの国のように、人口2,000人〜3,000人で都市としている場合もあるが、わが国においては次のような分類が一般的である。
    巨大都市 人口100万人以上
    大都市  人口50万人〜100万人
    中都市  人口10万人〜50万人
    小都市  人口3万人〜10万人
 以上のわが国の分類基準を念頭におきながら、ここでは、ひとまず、これまでに提案された著名な都市計画の思想を2つ紹介したい。ひとつは、フランスにおいて都市計画が一般化し、自動車交通が普及しだしたころに、フランスの都市計画者ル.コルビジェ(Le Corbusier)が提案した【人口300万人の理想都市(1922)】であり、他のひとつは、ル.コルビジェ(Le Corbusier)から約10年後に、ドイツのベルリン大学の教授であったG.フェーダー(Gottfried Feder)が提案した【人口2万人の理想都市(1932)】である。そのため、二人は、大都市論者と小都市論者と呼ばれている。
 ル.コルビジェの理想とした大都市は、彼の育ったパリとは全く異なった景観をもつ、ニューヨーク・マハッタンの高層建築群のもつ長所と短所、つまり機能的で効率的ではあるが反面において空間が少ないところをヒントに発想したもので、大都市に機能的な面と開放的な空間を積極的に取り入れたものとなっている(図1参照)。都心部は24棟の60階の高層建築で構成されており、この地区は3,000人/haの高密度をもつが建ぺい率はわずか5%である。都心部の中央には地下鉄道・近郊鉄道・遠距離鉄道の各駅、地上2階には都市高速道路で、ビルの屋上にヘリポートを立体的にまとめた交通センターが設置されている。この地区の外周は板状の8階建マンション(人口密度300人/ha、建ぺい率15%)の地区で、さらにその外周の郊外部は独立住居地区にしている。公園と都心部の間には公共施設群が配置されており、工業地域や飛行場は市街地と緑地で明確に隔てられている。
 一方、G.フェーダー(Gottfried Feder)が理想とした小都市は、地域において日常生活中心、週間中心、月間中心の段階的生活圏を考えて、これに対応する都市に然るべき都市施設を配置するならば、都市は小都市の方が機能性・効率性・環境の面において優れていると考えたものである。彼の提案した理想都市は有名なエベネザー・ハワード(Ebenezer Howard)(1898)の田園都市(Garden City)(人口規模32,000人)の諸原則をも再現しているという。
  さて、これまで大都市論と小都市論の主張するところを概観してきましたが、大都市論においては環境の安全性やコミュ−ニティー形成の視点が乏しいこと等や、小都市論においてはコミュ−ニティー空間形成上実態を反映していないのではないか等の批判はあったものの、20世紀までのわが国の都市の計画設計思想に大きな影響を及ぼしてきたのは事実である。
 しかし、21世紀以降の都市計画は、既述の20世紀までの人間中心主義の都市の認識に基づく都市計画思想を越えた新しい思想に基づく都市計画を目指す必要がある。次の第3回では、地球や、太陽等の恒星をその構成要素とする銀河系とのアナロジーから、国や地域における都市群をひとつの都市システムとして俯瞰的(時空間的)に認識することによって見えてくる未来都市の都市構造と秩序について考察する。
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『多様な感性と価値観』 リレーコラム都市の鼓動 第25回 

                             中澤昭典(技術士)
フランス人の日本研究家オギュスタン・ベルクは著書の中で、日本と西洋の都市や生活文化の違いを様々に対比している。例えば、都市とは、西欧では城壁に囲まれて閉鎖的で、教会という大切なものを中心に配置し、直線的な区画割りと左右対称を基本とした規則性を追求している。これに対し日本の都市は外部との境界線が曖昧で開放的であり、神社のような大切なものは奥に隠して配置し、不規則で非対称な区画割りがなされている、と。
家の造りに関しては、西欧では家はブロック塀で囲うことなど無く、外に向けては開放的であるが、家の中は個室に区切って閉鎖的である。これに対し日本の家はこれとは逆に、塀や生け垣で境界を区切り外に対しては閉鎖的であるが、家の中は障子や襖という曖昧な仕切で開け放つことが出来、内側に向けては開放的である、と。この違いは、地形、気候、地理や歴史等が複雑に影響し合って生まれてくると考えられている。
さて、都市の問題、或いはもっと身近なまちづくりや地域の問題を考えるときに、多様な意見が存在し合意を得ることが難しい場面が多々見られる。「古い建物を保存すべきか、新しいものに建て替えるべきか」、「建物の高さや色を統一すべきか否か」、「道路を広げて交通をスムーズすべきか否か」等々。
例えば、建物の高さや色を統一することはヨーロッパの都市に見られ、多くの日本人観光客はこれを、規則的ですっきりして綺麗だと感じるようだが、私はこれを、ゆとりが無く、重苦しく、息苦しいと感じた。日本の都市に対する外国人の評価も、雑然として統一感が無く美しくないという評価の一方で、多様性と意外性を内包し居心地が良く落ち着きを感じる、という評価もある。このように同じ物事に対してそこから感じ取るものは一つではなく多様である。
都市とは、そこで生まれ育った者だけでなく、他の地域に生まれ、異なる生い立ちを経た人間が寄り集まって活動し生活する場である。このため利害だけでなく、多様な感性や価値観が存在していると考えなければならない。このような視点がないと、ややもすると、自分やその周囲の主張するところが、社会全体が合意する方向であるはずであると言う思いこみから、その主観に溺れて、他を軽視したり排除したりするようになりがちになる。
今盛岡を始めとして全国の中核都市で、新しい中心市街地活性化法にかかる基本計画の策定がなされているが、この多様な感性の存在を認識した上での十分な議論が必要なのは言うまでもない。都市計画やまちづくりは、長い時間の中で営々と造り続けるものであり、国の思い付きのような予算や事業工程に合わせて拙速のそしりを受けた、他所の轍を踏むことがないようにしなくてはならない。
我々市民も都市の問題やまちづくりについては、多様な意見が存在することを認識した上で、醒めた視点を持ちながら、当事者として大いに関心を寄せていかなければ良い街は出来てこないと思う。
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『残された二つの台座』 リレーコラム 都市の鼓動 第24回 

                                 岩手大学教授  藁谷 収
 盛岡市内に、今は彫刻が外され、残された二つの台座がひっそりと建っているのをご存知でしょうか。一つは市民の憩いの桜の名所高松ノ池西側の神庭山に有ります。木立の中に人気も無い場に、3m近い高さで静かに建っています。この台座は大きなブロンズ彫刻が建っていました。その人は1865年盛岡に生まれの横川省三、父は盛岡藩士。新聞記者、千島探検の特派員、日清戦争従軍記者。その後大陸に於いて謀報活動、日露戦争時に満州鉄道爆破を図るが、ロシア軍に捕えられ、ハルピン郊外で銃殺。彫刻は昭和七年盛岡市が建立。制作者は近代彫刻史に名を連ねる盛岡出身の堀江尚志(岩手県立美術館収蔵作家)、鋳造は名工高橋萬治。その11年後の昭和18年第2次世界大戦の金属供出のため撤去。石膏原型は市内報恩寺に保管されています。
もう一つは来不方城跡公園、いわゆる本丸跡に建つクラシック調(ルネッサンス様式)の堂々とした台座。これには南部家四十二代南部利祥公の騎馬像が凛として建っていました。南部利祥は日露戦争に従軍し明治三十八年満州井口嶺において戦死。維新において朝敵の立場に甘んじた南部藩、再興の想いは熱く、五千数百名の賛同者により、明治四十一年建立。利祥公の制作は当時帝室技芸員、東京近代美術館に代表作「湯あみ」が有る彫刻家新海竹太郎。馬体は後藤貞行。鋳造久野留之助。この像も昭和19年金属供出のため撤去に至り、人体原型は桜山神社、馬体の一部は報恩寺に保管されている。(以上 盛岡市来不方城跡公園掲示板、盛岡四百年下巻・郷土文化研究会より引用)

盛岡のブランド、啄木、賢治と誰もが思い描く。街景観もこの偉人を背景に盛岡らしさとして存在している。しかし、歴史的に考えればこの二つの台座に関わった人々こそ盛岡の街造りに大きな足跡を残していたはず、この主人を無くした台座をどのように考えましょう。何処の街にも良くある話で、ましてや戦争に関わった出来事であれば、表舞台から退場し忘れ去られていく軌跡を辿る。しかし、これらの台座はそこに有ります。石を彫る人間として見れば、この台座はどちらも盛岡地元の花崗岩、特に利祥公の台座は当時の加工技術の最高峰である事は間違いありません。切削、研磨、組み立て全て手仕事の優れた技術を読み取る事が出来ます。大切な盛岡の遺産なのです。この台座を廻って、どれだけの議論が繰り広げられたかは、計り知れません。再興、撤去、再利用など、様々な思いが交わされた事と思います。どの選択肢をとっても、違和感そして不安になってしまう。このままで良いというのが、多くの意見を表現しているのでしょう。欧米の記念碑等を訪ねれば、権力の上書き的歴史の中で、彫刻がすげ替えられることはあまり珍しいとでは無く、街角には様々な人物が立っています。しかし、それらは景観的にもきちんとした役割を果たしながら、人々に愛されている。彫刻が無い台座だけの記念碑を見ることは滅多に無い。記念碑はその意味合いを超え、憩いの場として存在しているようにも感じます。我が街盛岡の二つの台座、拙速に結論は出ないことは言うまでもありませんが、新たな景観を考える扉を開けるきっかけになる可能性があるようにも思います。訪ねてみてください。
台座1 台座2
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『女性の知恵と力で岩手の未来を』 リレーコラム 都市の鼓動 第23回 

㈲鷹觜建築設計事務所代表 鷹觜 紅子
 岩手県の建設業は、今危機的状況にある。そういう状況下で、女性の知恵と力で何とかならないものかと思案し、先日、岩手県建設業女性マネジングスタッフ協議会の女性達が、宮城県の建設業女性経営者の会に、意見交換会を申し入れた。もちろん快く承諾いただいた。意見交換会のなかでは、建設業を取り巻く様々な問題が取り上げられた。
その中のひとつに、入札時にあけるダンピングの問題があった。そういう事実があるから、経営者達は経営不安を感じ、雇用にも踏み切れない。そして、雇用が出来なければ、次世代につなぐ技術の継承も出来ない。そうなった時には、自分たちの会社の存続も危ぶまれるが、数十年後の社会資本整備にも影響が生じる。そうなれば、昨年の岩手県内陸南部地震のときのように、緊急時、すぐに駆けつけた建設業の人たちのボランティア活動も、もはや期待は出来なくなっていると思う。ひとつの事から発生する、社会に及ぼす影響の大きさに今更ながら驚いた。
しかし、そのような状況で、不安材料があるからこそ開催された意見交換会であるから、皆、これらの不安を払拭するようなヒントはないものかと、夫々の話を、一言一句、聞き逃すまいと耳を傾けた。
そこに集まった女性達は、自ら会社を経営する立場にあったり、ジッと、縁の下から会社を支えてきたベテラン達である。これまでの数十年、決して平坦な道のりだけではなく、険しい時代も経験している。その女性たちの中から、印象に残った話を二つ程取り上げたい。一つ目は、建設業の異業種参入である。それは極めて冷静に市場を見極めた、実に意欲的で前向きの話だった。二つ目は、公共事業にあまり参入できなかった頃、自分たちの手でブランド技術を開発し会社の存続を守った話だった。出席者たちからも、早く新工法・新技術を認めてもらえる社会になって欲しいという意見が出された。夫々の心のうちに希望を持って帰ってきた。
話は変わるが、先日あるフィルムメーカーが経営危機に陥ったとき、それを乗り越えた時の話をテレビで見た。最初のときは、社員全員で知恵を絞って、使い捨てカメラを開発し、社員を一人も解雇せずにその危機を乗り越え、次のときは又、社員全員の知恵を出し合い、それまでフィルムの製造過程で開発されたナノ技術とコラーゲンから化粧品を開発し危機を乗り越え、今は薬品会社と共同で新薬の開発をしているというものだった。それを見て、もちろん規模は違うがそこに流れている真髄は、前述の女性達の会社と同じだと思った。際限のない開発が経営危機を乗り越えているのだと思う。
そういえば冬になると気付く事がある。この頃のアスファルト舗装は、水はけがよく凍っても滑りにくい。又、夜の景色がとてもきれいになった。外灯から発せられる照明の色が変わった。普段はなかなか気付きにくいが、多くの技術の進歩が少しずつ景観も生活のしやすさも変えている。
私たち建設業に携わるものは、日々自らの手で新しい事を考えつづけていかなければならないと思った。人々に愛されるまちは、私達の手でつくっている。そういう思いを持ち続けていれば、必ず岩手の未来は建設業に関わらず良い方向へとむかって行く事と思う。
鷹ノハシ

『里山の風に吹かれて思うこと』リレーコラム 都市の鼓動第22回 

                                       北田節男 
 地域は人びとの暮らし場所である。それは一定の地理的区域であるが、どこの地域も自然・物(人工物)・人によって構成され、そこでは日々さまざまな活動が行われ出来事が起こっている。

  今年も、わたしたちの暮らし場所・岩手でさまざまな大地の変化が観測された。「4/20、雫石・葛根田土砂崩れ…自然の猛威県道をのむ」「6/14、岩手・宮城内陸地震…震度6強・本県観測史上初めて、続く余震交通網寸断」「7/24、岩手北部地震…プレート・陸側に沈み込み、風評被害で観光地にも打撃」「8/29、二戸市の景勝地・大崩崖が崩落…馬渕川に土砂堆積」「9/3、早池峰・河原の坊コース崩落で交通止め」など地震や集中豪雨、凍結融解の斜面崩壊によって各地に大きな被害と不安をもたらした。自然の力の怖さを、改めて感じる1年であった。しかし、これら大地の変化は地球が誕生してから脈々と続けられる大地の鼓動であり、悠久の営みともいえる。

  岩手の大地は、日本最古の地層など遠く南の海底で生成され、北へ進み日本海の拡大で形成された北上山地と、日本海の海底で火山活動を繰り返しながら東へ進み、日本列島が東西方向に圧縮状態となり隆起し生成された比較的若い奥羽山脈、そして、それに挟まれ南北に細長い北上低地帯により形成されているという。その形成過程を示す地質構造線が北上低地帯の東側に日詰~気仙沼構造線、西側に盛岡~白河構造線、盛岡周辺には盛岡断層群として潜在するともいわれている。

  現在、わたしたちは、地形や地質構成に大きな違いを見せながら活動を続ける両者、隆起が続く三陸の断崖と、草をはむ牛の群が広がる北上山地に主峰早池峰山、独立峰姫神山を眺め、多くの良質なスキー場と、豊富な温泉を湧出し続ける奥羽山脈に岩手の最高峰岩手山、駒ケ岳・南昌山・東根山などを仰ぎ見ている。

  市街地周辺部には、鑪山・蝶ヶ森・岩山・黒石山・飯盛山などの里山があり、そして、北上低地帯の北端を源とする北上川や北上山地を源とする中津川、奥羽山脈を源とする雫石川など河川によって浸食抉(えぐ)られ、堆積して生成された上田・高松・黒石野など丘陵地が入り込んでいる。これら里山や丘陵地の四季織りなす美しい自然景は、私たちに自然の恵みを身近に感じさせ総じて街のランドマークとなっている。

  また、3大河川の合流点〓盛岡城〓跡を中心に南北に広がる市街地は、東西の丘陵地帯に囲まれ森林面積比率が高いため平野部への特化した開発が進み、古北上・雫石川堆積物や沖積層、火山灰などで生成された大地の上に今世の生活景を浮かせ隣接する町村へと拡大している。

  快適と便利を求めて人びとが集まり暮らす都市は、人と心と技(着想・設計・建設)の表現された壮大な人工物であるといわれる。大地の生成の姿を露に残す里山に登り盛岡市内を一望するとき、高層マンションが建ち並び開発が進む都市の移ろい逝く姿は、そよぐ〓杜の都〓の風のようにあまりにも瞬時の出来事のように思えたのである。

  (NPO都市デザイン総合研究センター理事)

『中津川』 リレーコラム 都市の鼓動 第21回 

(株)邑計画事務所代表取締役  寺井良夫 (技術士)
盛岡市民が誰でもそうであるように中津川がとても好きだ。毎日この川に接して暮らしていられることをとても幸せに感じる。身びいきではあろうが、中津川ほど素晴らしい川は日本中探してもどこにもない、と密かに思っている。中津川の良さは3つある。①近い、②気持ちが良い、③市民みんなが愛している、ことである。
 まず何と言っても中津川は近い。まちの真ん中を流れているためとても身近で日常的な存在である。大きな堤防で遮られているわけでもなく、わずかな階段やスロープを伝って容易に川原に降りられる。川原には遊歩道も整備され手入れが行き届いている。物理的にも心理的にも非常に水辺に近づきやすい川である。
 また、中津川はとても気持ちの良い川である。暑い日など思わず川に入って手足を水につけたくなるほど、清らかで澄んだ水が流れている。少し流れが速くなっている場所では、心地の良い瀬音が都会の騒音を打ち消してくれる。サケを始めとするさまざまな魚が泳ぎ、白鳥やカモなどの野鳥の営みを目にすることもできる。四季を通して人々の心を和ませ、楽しませてくれる川でもある。
 そして、中津川は多くの市民に愛され、多くの市民の手によって素晴らしい環境が守られている。ゴミ拾いをされている方々、川原や土手に花を植えてきれいに咲かせてくれる方々、石垣の間にはえる草を刈っていただいている方々、橋や川沿いの道路の清掃をされている方々など、行政による河川管理を補完するように、たくさんの市民の日々の活動によって中津川の美しい姿が保たれている。
 このように良いとこづくしの中津川であるが、それでもまだ本物の川ではないと厳しい目で見る人もいる。昔の中津川はもっともっとたくさんの魚がいて、その種類も豊富で実に80種類くらいはいたという。確かに、現在、中津川でみかける魚は、サケ、サクラマス、ニゴイ、ウグイ、ハヤ、アブラハヤ、カジカ、ドジョウのほか、放流したアユ、ヤマメなど数えるほどしかない。水辺の植物も単調で、水際にはえているツルヨシの他は川原のほとんどが牧草で占められている。川原であればごく普通に見られるはずのフキノトウの姿すらなく、かつては水中にたくさんあったバイカモもほとんど消滅している。
 できることなら30~40年くらい前にあった中津川の姿を取り戻したいものである。明治43年(1910年)に中津川で記録的な大洪水があってからまもなく100年。この節目にあわせて中津川のあるべき姿を再度見つめ直し、川と人々との係わり方や生き物の生態に十分考慮した川づくりに向けて、行政と市民が一緒になって取り組みを進めていくことが望まれる。
ガラス箱  21回



『限界集落を考える』リレーコラム 都市の鼓動 第20回 

                               村上 功 (技術士)
市場主義が世界を覆いつくし、社会のあり様が共同社会から利益社会へと変遷している。
人間にとって好機を得ようとする行動は、きわめて自然であるといえる。しかし利得を前提とした好機は、限られたところでしか得られない。このことが地方に大きなうねりをもたらしている要因のひとつではないか。
地方は人口の減少、少子・高齢化にくわえ、景気の後退によって疲弊化が進んでいる。さらに農山村地域においては、「限界集落」の問題が深刻になってきている。限界集落とは、生活共同体としての機能が衰退し、やがて消滅してしまうと定義される。
都市部から遠く離れた山間地に点在する農山村部では、長年なれ親しんできた土地からやむをえず離れ、それにともなう過疎化や無住化が拡大している。
国交省が平成18年度に「国土形成計画のための集落の状況に関する現況把握調査」を行っている。この調査によると、過疎地等の人口は、平成11年に比べ約1割減少し、集落の小規模化が進むとともに、北海道、東北、九州で高齢化が急速に進んでいるとしている。東北で人口50人に満たない集落は1697ある。また集落人口に対する高齢者(65歳以上)の割合が50%以上の集落は736を数えている。さらに10年以内に消滅が予想される集落が65、いずれ消滅するとされている集落が340にのぼるとしている。
一方、農水省が平成17年度に行った調査によると旧盛岡市内には無住化危惧集落が2集落存在するという。
この背景には、地理的条件の不利や教育・医療過疎問題にくわえ農産物の価格不安定、身近な雇用の場を提供してきた公共事業の減少といった経済的影響がある。また古くから集落の営みを共同で支えあう「結」、「隣組」といった仕組みが消滅し、地域コミュニティーの消滅もみられる。
これら限界集落に関連する問題は、単に集落の消滅にとどまらない。森林、農地の管理放棄による国土の荒廃や水資源の涵養、食料などの生産活動にも影響を与える。つまり地形的上流域に顕在する問題が、下流域の都市部にさまざまな影響を及ぼすことになる。このことは市場主義とは、相いれない重大な領域といえる。
山間地などの多くの集落では自助・共助が、行きづまってきている。それではと、住民がやむをえず公助を頼っても、当の行政は縦割りの不合理さから、なかなか抜け出せず有効な策を打ち出せないでいるのが現状だ。
このような中、限界集落対策のお手本のひとつが岩手県内にあった。1971年、西和賀町の旧沢内村では、それまで山間地に分散して暮らしていた55世帯を対象に、長瀬野地区に集団移転してもらい、新たなコミュニティーを築きあげた。この先進的政策によって、お年寄りから子供まで安全で安心な暮らしを手にすることができた。
今こうした取り組みを再評価し、過疎地域のありかたや再生について具体的方策を検討する時期にきている。
限界集落
限界集落の問題は、そこに住んでいる住民だけでは解決が難しい。大局的な見地から集落のあり方を見直し、地域資源の管理や生産活動などに関する枠組みや、仕組みをつくることが求められている。また地域自身も衆知をあつめ、自助・共助・公助を組み合わせながら創意と実行力をもって、未来予想図を描くことが必要だ。
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『“特に何も無い”心地よい盛岡の日常』 リレーコラム 都市の鼓動 第19回 

                        中澤昭典 (技術士)
「盛岡は特に観る所が無いんですよ」盛岡の人がお客さんに話す言葉である。
「盛岡はいい街ですね」盛岡を訪れる人たちが、お世辞でも言ってくれる言葉である。
「特に何もない」と「いい街」。これらは一見矛盾するように聞こえるかもしれないが、実に的確に盛岡の良さを言い表していると私は思う。
 それでは、盛岡の良さとは何だろう?
美しい町並みがあるか? 名所旧跡があるか? 凄い観光施設があるか? 自慢できるような文化施設があるか? 他から買い物に来るような商店街やショッピングセンターがあるか? いずれも“否”である。
視点を変えて、安心安全、バリアフリーのまちづくりがなされているか?。これも“NO”である。車椅子がすれ違える歩道は県庁前の中央通りだけで、本町、紺屋町、鉈屋町、上田通りなどは全く歩道のないところに車やバスが往来し、前と後ろに目が付いていないと安心して歩けない。
では何が「いい街ですね」と言わせているのだろうか。
私は少し前まで、徒歩か自転車で通勤し、勤め帰りに “みみずく書房”に寄って立ち読みし、たまには八幡界隈に寄り道をして帰ったものだ。休日には中津川沿いを通って、“ヌック”や“クラムボン”でコーヒーを飲みながら新聞や週刊誌に目を通す。時々、上ノ橋や富士見橋の上から、下小路中学校の生徒とすれ違いながら、鮭の遡上や白鳥を眺めて「もう岩手山に雪が降ったか・・・」などと、何となく感動もなく眺める。
こういう日常はあまりに身近にあるため、私にとっては水や空気のようなもので、特にその価値を認識していなかった。たぶん大多数の盛岡市民が、この「心地良い日常」を深く認識していないのではないだろうか。だから「特に何もない」という言葉が出てくるのだと思う。
ところがつい数ヶ月前、近所の“みみずく書房”に突然閉店された。無くなって初めてその存在に気が付く愚かさを悟ることになった。この界隈にとってみみずく書房は、水や空気のようにありふれたものではなくて、水や空気のように大切でかけがえのないものだったのだ。
さて、盛岡を訪れる人々は、旅行或いは観光という非日常の時間の中で、盛岡人が“特に何もない”と言う心地良い盛岡の日常を疑似体験することにより、「いい街ですね」という言葉が出てくるのではないだろうか。
「特に観るものが何もない」と言うことは、「びっくりするような騒々しいことが無い」という「心地良い日常がある」と言うことなのだと思う。 
盛岡の心地良い日常を守るため、私は最近本はアマゾンで検索して近くの本屋さんに注文することにしている。
大通りの休日19回


『啄木電車と啄木詩人館」構想』リレーコラム 都市の鼓動 第18回  

                                     行政書士・詩作家 服部尚樹
 旧県立図書館が「歴史文化施設」として活用される計画が進んでいるそうです。知り合いの女性が言いました。「以前は県立図書館まで行って読書できたのに。市立図書館の内丸分館にしてもらえれば、うれしい。」
跡地利用の問題。老朽化する前に市民の間で自由に意見を述べ合えば、建物が熟してくる頃には、跡地利用案も熟しているでしょう。
先日、仙台の友人が岩手にやって来て一番感激した場所は、平泉の「高館義経堂」でした。話はそれますが、第一級の世界遺産と思える「義経堂」をもっと強調してほしい。義経堂から見える景色は、義経の時代をよみがえらせる数少ない場所だからです。ステキな跡地は、時代を超えて存在していきます。
ところで桜山神社の後ろにある烏帽子岩。石川啄木は、何とこの烏帽子岩の前に立ちました。盛岡中学の同級生と一緒に写っている写真を図書館で見ました。実は私は、うれしいことや苦しいことがあったとき、この岩の啄木が立っていたあたりに立ちます。全国の啄木ファンがこのことを知ったら、行ってみたいと思うことでしょう。烏帽子岩を「啄木ゆかりの地」に加えましょう。
烏帽子岩
さて、盛岡に「石川啄木詩人館」がほしいと個人的に思います。玉山の「啄木記念館」とタイアップして詩人としての啄木を強調します。中原中也賞にならって石川啄木賞も創設します。
経営のノウハウに、商品を売るときにはストーリー(物語)とシーン(演出)が大事である、という考え方があります。街を売り出すのも同じです。啄木が生きた時代のストーリー(物語)とシーン(演出)を、盛岡の地で表現しましょう。市役所が移転する跡地でもいいですね。
 ワーキング・プアが大量に生み出されている今の時代は、啄木がいみじくも喝破した明治の「時代閉塞の現状」に似ている。だからこそ今は、啄木の価値が輝く時代でもある。
文学としての詩は、俳句や短歌ほど開拓されていませんが、啄木はすでに極めていました。詩人・村野四郎は、啄木の詩を高く評価しています。前田愛という文学者は「啄木は初めて都市を発見した」と言っています。啄木が東京に出た時代には、路面電車が走っていました。啄木が新聞社に勤務していた頃の歌です。「途中にて 乗換の電車 なくなりしに 泣かうかと思ひき 雨も降ってゐき」そこで、「啄木電車」構想。明治時代に東京で走っていた電車を盛岡で運行させます。「啄木電車」は盛岡駅から大通りを抜けてゆっくりと市内を巡ります。市民の通勤や買い物にも頻繁に使われます。市内循環バスは取って代わります。いずれは玉山の啄木記念館行きも出ます。課題は予算と渋滞対策です。愛知県にある明治村の路面電車を参考にしたレトロな小型電車モデルだと、渋滞も緩和できます。軌道が無いタイヤ走行にして予算も少なくします。企業や大学と新技術開発をしてCO2無しのエネルギーで走ります。タクシー会社、バス会社やNPOが運営します。
 時代閉塞の今こそ、盛岡で啄木を「売り出す」のがよろしい。天国の啄木は、これを読んで「予のことを都市の商売のことに使うのか」と怒るかもしれません。でも、啄木のことです。「借財によって生活した予が、こんな形で役に立てるなら、貸してくださった人たちへの恩返しになるかもしれませんね。」と笑ってくれるかも。
18回

『まちづくりの心』 リレーコラム 都市の鼓動 第17回 

佐々木栄洋 (博士(工学))
「まちづくりという言葉は実に耳触りのいい言葉であるが、解釈に差がある厄介な言葉である。」というコメントをある学会で聞いた。確かに、地域固有の文化や風土を活かすための方法論等において使われることが多く、市民活動に用いられることも多い。行政においては施策のキャッチフレーズとしてもよく用いられる。専門家の中では明確な定義づけをして用いている人が多く、私も様々な場面で用いてきた。
「まちづくり」は、オーソライズされておらず、明確に定義されていない言葉ではあるが、広義では「ある地域が抱えている課題に対して、ハード、ソフトの両面から解決を図るために、施策を講じて実施しようとする取り組み」と捉えることができるだろう。しかし、定義が曖昧な故に伝える側の意図することが、受ける側に的確に伝わるとは言い難い。そう思いながら偶然手元にあった新聞を開いてみると、「住民主体のまちづくり」、「住民と行政の協働によるまちづくり」という小見出しの記事があった。そして、その横には「民間業者が行う宅地開発」もまちづくりと称して掲載されていた。
今から10年以上前のことではあるが、産学官民協働のまちづくりを実践しようと開催されたまちづくりワークショップでの出来事をふと思い出した。このワークショップは、地域資源の活用方法の素案作成を目的に、地域住民(市民)、行政(県、市)、学者・専門家(大学、コンサルタント)がメンバーとなり、十数回開催されたものであった。まちづくりワークショップが全国各地で取り組まれ始めた時期ということもあり、不慣れな感は否めなかったが、興味と不安を抱きながら私も参加した。当初、互いを意識したせいか、参加者の意欲に差がみられたが、次第にその差が小さくなってきていることを感じた。しかし、ある時、ワークショップに変化が見られた。開催するにあたって参加者で決めた「互いを批判するではなく建設的な意見を出し合う」というルールが崩れ始めたときであった。
行政は、住民から出された「意見」を「要望」のように感じ、自らの発言に責任を求められては大変と意見を控えはじめた。また、予想もしない意見が出され、ワークショップの方向性が専門的な見地から外れてくると、専門家は呆れ顔になり軌道修正に必死になった。さらに、ファシリテーターの狙いが見え隠れすると、市民は興醒めし、批判的な意見が増え、参加者が減りだした。「地域のために皆が知恵を出し合う」という共通認識が、立場によって変わってきたのだった。幸いにも、ワークショップは目的を達成し、成果を上げることはできたのだが、最終的に釈然としないものが残った。それは、まちづくりワークショップにおいて、「互いに協力して問題を解決した」という感動を共有することができなかったためではなかろうか。
 まちづくりは、地域固有の事情やかかわる人の資質によるところが大きく、他地域の事例はあまり参考にならないという意見を聞くことがある。それが他国となると、価値観や法体制も異なり、ますます参考にならないかと思いがちであるが、参考事例にする人は多い。何故であろうか。それは、自分たちのまちを愛する心、自分たちのまちの課題を解決したいと願う心は、価値観や法律、社会の仕組みが異なっていても世界で共有できるからではないだろうか。自然保護でも市街地再開発でも開発計画への反対や市民参画の問題でも、自分たちのまちを愛する心には国の差などない。まちづくりには、「感動を共有しようとする心」が最も大切ではないだろうか。
17回

『普通列車の旅とランドマーク考』 リレーコラム 都市の鼓動 第16回 

                          中村 正 (株・ネクサス代表取締役)

この10月末、久しぶりに水沢から盛岡までの在来線(JR東北)に乗った。
ウイークデイの昼下がり、2両編成のロングシートタイプで各駅停車。居心地の芳しくない1時間あまりの旅になることを覚悟し乗車、着席。
動き出した車窓からの風景を目にして、予測は一転した。
澄んだ空気の中にくっきりと雪を被った焼ヶ石連峰、経塚山がその特徴ある姿を現わしていたのである。
“今年はついぞ登らなかったな~”などと思いを巡らせている中、次々に現れる山並みを眺めつつ、いつしかそれらの山名を確認し始め、車窓からの風景にどんどん引き込まれていた。
すっかり、“久しぶりの山めぐり”に浸たる小旅行気分の自分が其処に居た。
右を見たり、左を見たり、挙げ句は運転席の後ろに立ってみたりと忙しげで、周りの人には訝しく見えたかもしれない。
西(左)に、経塚山、駒ヶ岳、夏油の山々、丸子峠、重なり合う豊沢川源流域、電波塔の並ぶ新山、炬燵山とは上手く云ったもの、そのものズバリの東根山。釣り鐘状の南昌山と毒が森、そして赤林山、箱が森。山裾に飛び出た城内山、飯岡山。高倉山や秋田駒ヶ岳、烏帽子岳も遠望。
東(右)に、種山高原、白森山、小白森、薬師岳、小田越峠、早池峰、鶏頭山、毛無森、黒森山、朝島山、鬼ヶ瀬山、沢口山、鑪山、蝶が森。遠くに兜明神岳、岩神山、安倍館山、御大堂山、姫神山。そして正面にど~んと鎮座マシマス岩手山を指差確認(まさかそこまではしていなかったとは思うが、ぶつぶつ独り言をしていたかもしれない。)。
いつの間にか水沢―盛岡までの、小躍りしているような“東北本線沿線ランドマーク確認旅行”になっていたのである。
秀逸は北上を過ぎて花巻、石鳥谷、日詰にかけて東側(右)に遠望された“冠雪の薬師岳、小田越峠そして早池峰連嶺の端正な稜線”であった。
「附馬牛の谷へ越えれば“早池峰の山の形は片仮名のへの字に似たり”」と柳田国男が「遠野物語」の中に記していたことを思い出し、「東北線、花巻辺りから東の方角に三角山のごとく見える薬師岳から鞍部の小田越を挟んで北側に“逆への字がごとく連なるのが早池峰の山々”」と云いたい衝動に駆られた。
この季節、薬師岳や小田越なくして早池峰は風景的にその存在を主張できないように見えたからである。
そういえば7~8年前、晩秋~晩春にかけて、花輪線、田沢湖線の一番列車に乗り、朝焼けの景色を楽しんだことを思い出した。
30年近く寝起きとともに緑の額縁に納まった岩手山を見ることができる暮らしをしてきて(勿論天気が良い場合であることは云うまでもない)、ちょっと違った朝の風景を見たくなった。そんな動機だった。
メモを見てみると、「紅葉季の花輪線(東北自動車道からも)は遠景、近景ともに“朝日に錦織りなし、秀逸”」。「岩手山は、晩春の薄明、雪の残る田沢湖線からが“たおやかで優(厳冬期の朝焼けは神々し過ぎる)”と記してある。

“景観は時間(季節、朝、夕、観る人の成長を含めて広儀)とともに変幻自在だな”との感である。
そしてその変化には何の不安も感じさせられない。むしろ安定(秩序の存在)を憶えるのは私だけであろうか。
“万物は流転する”は古代の哲学者ヘラクレイトスの名言。(古代の哲学の主たるテーマは“万物の源は何か→自然とは何か”であった)
「万物は永遠の生成消滅の内にある。この消滅は相互に転化し合う相対立する関係にあるものの、緊張的調和によって普遍の秩序を示す」と言うふうに述べているとのことである。
我流の解釈は「自然は変化するもの。変化するが普遍の秩序を示す」である。
風景(景観)において、ランドマークが果たす重要な役割は“安心、安定に関わる象徴性”であろう。
「ランドマーク考」は、まち場における都市計画的一手専売的手法でなく、少なくとも“鉄道沿線でも対象とすべき事柄”のように思える。対象とすべき場や、物を含めて、多様なアプローチがあると考えたい。
大いなる百家争鳴を期待する。
時間と云う魔物のような度量衡に耐えうる不滅のランドマークは、盛岡であれ何処であれ、岩手(日本)に於いては四囲の山々(自然)なくして語れそうにもないと想いつつ。
中村

『都市のなかのユーモアあるいはウイット』 リレーコラム都市の鼓動 第15回 

                                 建築家 山添 勝
盛岡駅前広場の設計にあたって市から与えられたテーマは「水と緑」であった。山紫水明にめぐまれた盛岡を象徴するには当然の選択といえる。すでにカスケード(滝)を造ることは決まっていた。これをデザインするにあたって、市、国鉄との協議がたびたび行われた。私は滝の下に中津川を模した「せせらぎ」をつくることを提案した。大方の賛同を得たのだが、委員のひとりが「シャケが泳ぐかもしれん」とつぶやいた。あ、それだ、とひらめいた。「それはおもしろい、石のシャケなら泳ぎます。」
こうして広場の要となるカスケードの形がきまった。シャケの彫刻は彫刻家の柵山さんに依頼した。ほんの少し広場にユーモアを与えられたと感じた。ところがこのシャケ、元気が良すぎて、ある晩せせらぎを飛び出し、広場の中央で横たわっているのが発見された。酔っ払いの仕業とのことだが、ボルトでしっかりと固定されていたもので、その馬鹿力に大いに驚かされた。
大通りのアーケードの設計のときのことである。完成後半円の形が重なりながら連なる雪除けスクリーンについて説明しているとき、建設委員の一人である化粧品店の社長から「スクリーンなどと野暮な言い方はやめてフリルと言ってよ」と注文がついた。
「フリルというと女性の下着の裾飾りのあれですか」とおもわず問い返した。
「当たり前です」と社長。
さすがは化粧品店の社長の感性はすごいと感心した。アーケードを支える列柱は、すると黒ストッキングをはいた女性のおみ足なのだ。やや太いかな、と気にしていたのだがそれ以降全然気にならなくなった。柱頂部に赤いリボンでも結べば良かったかなどと一瞬まじに思ったものである。
ヨーロッパの景観視察の際、ハイデルベルグですごいものに出くわした。市の中央を流れるネイル川に架けられた美しい大きな橋、そのたもと、親柱に当たる位置になぜか大きなサルの彫刻が置かれている。尻を突き上げためちゃくちゃ愛嬌のある姿勢と表情は見るものの笑いをさそう。しかし芸術的に充分美しい。なぜか御盆状の円盤を抱えている。近ずいてよく見ると御盆ではなくつるつるに磨いた銅鏡である。わが顔がぼんやり映し出されている。像の台座にこれも立派な銘版が埋め込まれている。その文字をたどるといわく「私を笑うまえに鏡のなかの己を見よ」。
おもわず笑いを通り越してうなってしまった。なんという知的なウイットか、ユーモアか。このサル、市のシンボルとなっている。さすが大学都市ハイデルベルグ、そしてその象徴・・・。
盛岡に戻る。ご存知川井鶴亭「盛岡城下絵図」、現在の明治橋の位置に船橋が描かれている。中央公民館にその精緻につくられた模型が展示されている。多数の舟艇を鎖で連結し、その上に桁と板を並べたいたって簡素で合理的な構造なのだが、非常に繊細な美しさを感じる。当初わたしは軍事目的のための構造と思い込んでいたのだが、学芸員の説明ではあくまでも度重なる北上川の氾濫に備えるためにとられた構造とのこと、納得した。
流れ穏やかなとき、あるいは逆巻く激流のとき、それぞれ橋はどのような表情を見せていたのだろう。川の流れに抵抗してうごめくそれは構築物というより巨大な生物のようであったのでは、と想像する。現代の我々はそのちいさな模型をみて、不遜にも美とそしてユーモアさえ感じるのだが、この橋を維持する努力は並大抵のことではなかったことだろう。そしてそれだけ皆に親しまれたのではないか。
現代の盛岡の橋では「開運橋」が私は好きだ。無数に並ぶリベットのせいである。少年のころ、学校の体育館の工事現場でリベット打ち作業を飽かず眺めていた。地上で真赤に焼かれた鋲を長い柄のヤットコで掴んで放り上げる。はるか上、鉄骨に跨った職人がそれを取っ手のついた小さなバケツでキャッチする。それが機械的に正確に繰り返され、万に一つの失敗もない。みごとな職人技で、サーカスを見るよりもおもしろかった。開運橋はその思い出につながっているのである。老骨に鞭打って頑張るその姿は時として私にはユーモラスに映るのだが、しかし哀愁すら感じる今日この頃である。もうすこし頑張って。
皆に愛されているもうひとつの橋に「上の橋」がある。擬宝珠と和風の木製街路灯が特徴なのだが、アスファルトの上にポツンとかかしのように突っ立つ街路灯がさびしげに私は感じる。アスファルトでなく、歩道部分が木板で敷かれていたらさらに味わいを増すのだが。惜しい、本当に惜しい・・・。

『都市の魅力と役割』 リレーコラム都市の鼓動 第14回 

                               中澤 昭典(技術士)
都市の魅力とは何だろうか?
私は、喩えて言えば「ヴィレッジヴァンガード」のようなものだと思う。ヴィレッジヴァンガードとは何かと言えば、今や全国どこにでもあるが、盛岡ではイオンモールの中にある、自称本屋、実態は雑貨屋である。
そこにはいろんな小物や書籍がひしめいて雑多な世界がある。小さな店内に入ると迷路に迷い込んだように方向感覚を失い、入り組んだ狭い空間は濃密に詰まった何かで、その物理的サイズ以上に奥行きを感じさせる。店の中の通路は全てカーブしたり不規則に交差したりしていて、1m先にも何が出てくるかわからず、「棚の向こうには何があるのだろうか」という小さな不安とわくわくする期待感を抱かせる。雑然と並んでいるように見える棚には、楽しそうで、便利そうで、猥雑で、怪しげな雑貨に混じって、個性的で硬派な本も積み上げられている。客は混雑する迷路の中で「すみませんちょっと通してください」と声をかけないと通れない。今風の若者たちが狭い通路で肩がぶつかりそうになりながらもながらも、結構互いに気を配り、溜まりながらうろうろしている。私はここに、都市の一つの理想の縮図を見い出す。
 さて、人々が都市の繁華街に出掛けるのはなぜなのか? 買い物だけではないし、映画を観に行くだけではないし、あの店に行くのでもない。多くの人々は “街に出掛けること”自体を目的に街に集まる。そこには “人混み”と“多様性”が存在するからだ。この、人混みと多様性、すなわち “雑多”こそが都市の魅力の重要な要素なのだと私は考える。人々は人混みに入ることにより、レッテルを外した匿名性を獲得できる。学校の成績や家柄や経歴や名前さえも脱ぎ捨てられるのだ。社会学者の宮台真司は建築家隈研吾との対談の中でこれを、「顔を持たない名前を欠いた存在」と述べている。つまり近所の目も無く、学校や会社からも解放され、一時的に人生にリセットをかけることが出来るのだ。そこでは仲間と溜まり、或いは孤独を楽しんだり、まったりとした寛いだ時間と空間が存在するのだ。
少し前まで、老人ホームや大学は、郊外の緑豊かな空気のきれいな環境のよい所にこぞって立地したり移転した。しかしきれいな環境に移った結果、老人はすぐにボケ始めた。学生達は、郊外のきれいすぎるキャンパスには「溜まり場がない」と嘆いた。溜まり場がないところにはコミュニケーションが発生しにくく、学生からは覇気が失われた。その結果、この2つは最近はまた街中に戻り始めた。
宮台真司は、繁華街には「匿名的なコミュニケーションを生きるための都市的なコミュニケーションチャンスがある」とも述べている。匿名性とコミュニケーションチャンスがある「溜まり場」はまったりとした寛げる「居場所」となる。それを存在させ得る雑然としてニュートラルな空間としての繁華街。それは例えば、下北沢であり、原宿であり、盛岡でいえば桜山界隈であるが、それらは現在の状況を意図して計画的に造られたものではなく、自然発生的に出来上がった空間である。
DSCF0149.jpg

今、新しく造られている街や街路は、きれい、安全、安心などに目が向けられ、そういう雑多でやや怪しげな匿名性というものを排除しようとしているように感じられる。しかし、一方では「街なか居住」や「街なか観光」という言葉が巷に聞かれるようになったように、社会はその価値を感覚的に感じ始めてきている。
私は、都市の持つ雑多やそこから生まれる匿名性が、人々の精神的バランスをとる装置として、或いは現代のコミュニケーションン装置として、その果たす役割について分析と評価を行う必要があると考えている。そして、亜流として排除されがちなこれらの中に、都市を再生させ、社会の閉塞感を抜け出す『本音』の手がかりが隠されているような気がする。
14回

『都市の秩序』 リレーコラム都市の鼓動 第13回 

                           北海商科大学教授 工博  安藤 昭

 都市の秩序について考えるには2つの方法がある。ひとつは、国や地方における都市間の秩序について考えることであり、他方は、一つの都市の中の文化秩序について考えることである。今回はリレーコラム第1ラウンドでもあるので、一見無秩序に見える国や地域における都市間の秩序について解説する。 
 国や地域に存在する都市の間の性質を簡潔に説明する法則として、都市の【順位・規模法則(rank-size rule)】がある。都市の順位・規模法則とはジップ(G.K.Zipf)(1941)によって主張されたもので、かなり多くの都市をふくむ国や地域のすべての都市についての、各都市の人口とその人口の大きさの順位との間にみいだされた法則である。つまり、ここでいう規模とは、人口によって測定された都市の規模を意味し、順位とは、その規模の順位である。たとえば、図1に、わが国の人口5万人以上の規模をもつ都市の順位と規模の関係を示すが、図1に示されるようにL字型をした曲線を得る。
図1都市の人口と順位の関係
このことは、最大の都市の規模と第2位・第3位の都市の規模とのあいだには大きな差がみられるが、順位数の大きい都市の規模のあいだには、そのような差はみられないことを意味している。図1に示されたわが国の都市の規模とその順位を対数であらわし、それらの間の関係を示せば図2のようになる。
図2 都市の順位規模法則
ジップは都市人口Pとその順位Rとの間には、一般にlogP=alogR+bという関係があることを主張したわけである。そして、この式のパラメーターaおよびbは、都市人口の分布に働く統合の力と、多様化の力によって決定されるもので、統合の力が大きい場合にはbと|a|は大きくなり、多様化の力が強い場合にはbと|a|は小さくなると考えた。つまりパラメーターaの絶対値が大きいことは、少数の比較的規模の大きい都市と多数の比較的規模の小さい都市が存在することを意味し、それが小さいことは都市の規模が相対的に比較的一様であることを意味する。また、パラメーターbが大きいことは、最大の都市の規模が大きいことを示し、それが小さいことは、最大の都市規模が小さいことを示すとした。
 ジップの都市の順位・規模法則の重要な点は、一見無秩序にみえる国や地域(ここでは紙面の制約から事例として取り上げることはできなかったが、都道府県レベルにおいても検証されている)の都市の人口規模はかなり明確な秩序を示し、その秩序を表現する式のパラメーターを用いて、定量的に示すことができることであるといえよう。
参考・引用文献
石水照雄・奥野隆史編;計量地理学、共立出版、pp41-46
第13回安藤


『明日への都市デザイン考』 盛岡のケース 

                                  (株)中居敬一都市建築設計 
                                          代表 中居敬一
 『都市』とは少なくとも、自然発生的に発展した集落とは違い、ある種の強い意思の基に構築され、発展してきた集合体である事を再確認する必要があると思う。歴史的都市は洋の東西を問わず時の権力者の強い意思が反映され、常に他都市との、食うか食われるかの都市間競争を繰り広げ生き残ってきた経緯がある。そこには都市民の安全を守る為のいろいろな知恵が施され、街割りや街路が決定されてきた。その決定について庶民の声など届くすべも無いものであったと想像されるが、庶民はその街の構成についての意思は十分に理解し、運命共同体の一員としての認識は高かったものと推測できる。住む者にとって街のコンセプトが理解できると、その住み方もある種の同調した住み方をし、独自の連帯感と安心感を持ったコミュニティが形成されたのではないかと思える。日本に於いては長屋の『熊さん』『八っあん』などの地域連帯感はそうしたものから養成されたのではないだろうか?当時の政治や身分制度の是非は別として、都市を考える上で明快な都市構造を示し、住民に周知させる点に於いては現在の自治体も学ぶべき点があるのではないかと思うのは私一人であろうか?盛岡も400年前に明快な意思の基に建設された『都市』であり江戸期の政治経済を反映した街として、時代の変遷を経て今日に至っている都市である。
中居写真1
時代は変わり戦後の主権在民による民主主義が確立されたのは喜ばしい事ではあるが、主権を持っている肝心の在民が未だ自分達の都市に対する共通のコンセプトを確立している訳でなく、都市計画は『お上の仕事』と思っている市民が多いのが実状ではないだろうか?しかしながら、その現代版『お上たる自治体』のトップはかつての藩政のお殿様程、明快な都市ビジョンを都市住民に示しているとは思えず疑問を待たざるを得ない。自治体の都市ビジョンの制作者、立案者が誰なのか、責任は誰が担っているのか?さっぱり顔が見えない状況である。盛岡に限らず多くの都市がそうである事は日本全体にとっても大きな問題である。中央政権的運営による3割自治の弊害が、各都市の自立と独自性のある都市の構築、運営が出来ないでいる事は理解したとしても都市運営を預かるトップに成ろうとする者は少なくとも都市の将来ビジョンを示し、市民や行政の職員に周知させる事が必須では無いだろうか?将来の都市像はもちろん彼一人に責任を負わせるものではなく、主権者たる都市住民こそが自分達の街をどう運営するかを提示する必要があるし責任もある。このような原則論は皆が周知している事であるが現実には未だそれがなされていない。先ずは官民が一体と成って皆が日常的に議論し合える場と仕掛けづくりが早急に必要と思う。言わば互いに『顔の見える場』づくりが求められる。
中居写真2今、盛岡は歴史的景観保存と乱立するマンション問題、スプロール化した都市構造とコンパクトシティ、地球環境問題と脱車社会、等々大きな都市問題に直面している。市民がだまっていては今までがそうであったように知らないうちに街は知らない方向へ変遷していく。今回、このような紙面による都市問題に関するリレーコラムの場が得られた事は今後の市民参加の街づくりに多いに貢献するもと期待するものであるし、更には他のマスメディアも積極的に都市問題に関与する責任があると思う。今後、地方分権は急速に進む可能性がある。早くから自分達の街に対して官民一体となった未来像を日常的に着々と考察している都市と顔の見えない中央の都市コンサルに任せっきりの都市とではどちらが市民の地域連帯感、幸福感が得られかは言わずもがなである。
12回



『コミュニティーの崩壊』 リレーコラム 都市の鼓動 第11回 

  ㈲鷹觜建築設計事務所代表 鷹觜 紅子

この頃、学生時代に調査のために訪れた西伊豆の小さな漁港の事を思い出す。
暑い夏だった。前面に広大な海、背後には山々という、限られた空間の中で生活する集落だった。私たちの調査は都市計画の原点ともいえる、生活者に密着した都市の構成体(道・広場・住宅地等)がどのようにしてつくられたのか?
そして、その狭い空間を人々はどの様に工夫しながら生活し、またそこで何が生まれるのか?という調査であった。
 車の通れない、歩行者が主に利用する道が、山側の家のほうから海に向かって続いていた。暑い日差しの中では高齢者にとっては過酷な道である。道は蛇行して大きな木の傍らを通っていた。私たちは、その場でしばらく待った。案の定、老人がやってきて、木の根元に腰を下ろした。自然に会話が弾んだ。その場所は、疲れた人が休むところで、休んだ人同士があまり知らなくても会話の弾む場であった。
 また、海側の家々は、軒を重ねるようにして建ち並んでいた。家の外には洗濯機が置かれ、どこまでが隣の家で、どこまでがこっちの家なのか解らない状態だった。人々は狭い敷地を共有しながら、隣同士うまく関わりあって生活している気がした。
 私たちが子供の頃、私たちのまちでも同じ様な光景がよく見られた。どこかの家の庭先を通って歩いたり(ぶどう棚があれば、ぶどうを採って食べた)、天気の良い日は、庭先にタライを並べ、母親たちがおしゃべりをしながら洗濯をしていた。近くの川の側には湧き水があり、スイカやトマトを冷やして食べた。皆で使う湧き水だったので、子供たちもルールを守って大事に使った。皆がうまく関わりあいながら生活していた。洗濯機や冷蔵庫や便利なものがたくさん揃った今でも、隣近所との関わりあいながらの生活は続いている。春には山菜、夏にはきうりやトマト、秋にはお花やきのこが行き交い、冬には炬燵に入って隣のおばちゃんは何をしているのかなと考える。私たちは子供の頃から隣近所とのコミュニケーションを自然に身に付けて育った。隣近所とうまく関わりあいながら生活していれば、こんなに楽しいことはない。今更、他に引越ししようとも思わない。
 近年、盛岡市内に建ち並ぶマンション。ひとつの工事が終わったと思うと、またひとつ工事が始まる。人口が増える理由もない盛岡で、一体誰が住むのだろうと疑問に思う。もし郊外の住宅団地から、中心部への移住であれば、それを黙って見過ごしても良いのだろうか?
そもそも空間は生活者たちの必要性から構成され、そういった空間にこそ、真の価値が存在すると思う。また生活者たちは自分たちが造り上げた空間であるからこそ、その空間に複合性を持たせ(空間をひとつの用途にとどめない、例えば洗濯する場所が隣の洗濯を干す場所であったり、畑であったりという空間を多用途で利用する)、そこに隣近所とのコミュニティーという付加価値を加えた。松園は行政が与えた空間で、住民の主体性が存在しない。そもそも松園の造り方に問題があったと思わざるを得ない。
11回添付写真11回

『街に生きる彫刻』 リレーコラム 都市の鼓動 第10回 

                              NPO都市デザイン総合研究センター 理事
                                      岩手大学教授  藁谷 収

 自然と街の関係に付いて考えてみる。生まれ育った盛岡の街も、随分様変わりしていることに気がつく。懐かしい風景が、思い出の語らいの中に蘇ってくる。昔遊んだ林や川も今は無く、立派な道路が出来立ち並ぶマンションに、都市としての顔を見る事が出来る。彼方こちらに点在する緑のエリヤは、街の開発の為に切り取られ、残された緑の森である。家を建て、街で生活する以上、この自然の風景を変えて行く行為を余儀なくされる。自然は急速に姿を変えて行き、人もまた戸惑いを感じている。
彫刻家が、石を切り出し、木を切り彫刻を制作する。その愚かとも思える行為の中で、自然は、多くの事を教える。木や石を刻み、形を見つけて行く中で、自然は、自然自体の持つ無限の形、素材の力強さを見せ、そしてインスピレーションを与えてくれる。この与えられる事と、失う事の矛盾をどう考えよう。
 1950年代に世界的に興った彫刻シンポジウム。それを通して求めて来たものは、彫刻を街に置く事により、人々の快適な空間を創りだし、文化活動の活性化となりうることである。自然との融合が、快適な生活に不可欠であるならば、この活動は、自然をどう捉えるか、彫刻家が何を表現するか、単に街の景観だけの問題ではなく、広い視野に立たねばならない。山から石や木を運び、街を創り、自然の恵みにより文化が育まれて来た。しかし、自然との調和が無ければ快適性を失う。街と自然、私にはその関係が今は、何一つ解決されていない。しかし、今後の作家活動の重要なコンセプトになって行く事を感じている。
街づくりに彫刻が参加する事、それは、自然との関係を見守りながら、決して一部の人だけではなく、街を構成している多くの人との繰り返し行われるコミュニケーションの中から生まれるもの。そして、創造されるものは、時を超えじっくりとその街に存在するものでなければならない。街の中に彫刻を置こうという一つの行為が、様々な問いかけになって、展開していく。何を考え、何を表現し、何を提案して行くのか、自分の中では明確なものは未だない。ただ、彫刻シンポジウムを通して、これらのことに付いて少し見えて来たものもある。盛岡城跡公園に野外展として彫刻を設置し、杜陵小学校の前で野外音楽会を企画する事で、市民の人たちの声が、「楽しい風景ですね。」等と聞こえ始めている。活動はまだまだ続けなければならない。彫刻が人々に長く愛されるものを創りたいと思っている。
第10回写真10回

『地域からの視点』 リレーコラム 都市の鼓動 第9回  

                             NPO都市デザイン総合研究センター 理事
                                             北田 節男
地域は人びとの暮らし場所である。それは一定の地理的区域であるが、どこの地域も
自然・物(人工物)・人によって構成される。そこでは日々さまざまな活動が行われ出来事が起こっている。ある地域が他の地域と違うのは、その構成要素と同時にそれらの結びつき方が異なるからである。しかも、そこには人・物・情報の流出入の形で外部からの影響が加わり、地域に複雑な動きが作り出されている。…「実践・まちづくり読本」より…
“盛岡が道・東北で「住みよさランキング」トップ”の報道(出来事)があった。
東洋経済新報社が全国784市を対象とした「2008年・全都市住みよさランキング」の総合評価で、盛岡市が北海道・東北地区の1位に輝いたというものである。現況の各市が持つ「都市力」を「安心度:人口当たり病床数や介護施設定数など」・「利便度:大型小売店店舗面積や金融機関数など」・「快適度:下水道普及率や都市公園面積など」・「富裕度:財政力指数など」・「住居水準充実度」の5つ観点・16指標についてランキングしたもので、大型小売店舗面積の増加など「利便度」が全国8位のランクされ「安心度」・「富裕度」なども平均以上をマークし、盛岡市は買い物などの利便性が大きく向上したほか緑の多さや医療・福祉・住居環境などのバランスも良く大変住みよいまちと評価されている。
また、時事通信社が全国49都市(都道府県庁在市と川崎・北九州市)を対象とした「2005年・くらしと環境に関する世論調査」の「住みやすさ指数」でも、盛岡市は総合1位にランクされている。身の回りの生活環境を「日常生活」・「医療」・「生活環境」・「安全・整備」・「生活文化」の5分野・18項目について、満足度を総合評価「住みやすさ指数」として算出したもので「空気や、海、川の水のきれいさ」・「子供の遊び場の安全性」「美しい町並みや伝統的な行事」・「ごみ、下水道などの環境衛生のよさ」「地震、水害などの自然災害に対する安全性」「交流の場となる公民館などの利用のしやすさ」・「自宅周辺や地域の治安のよさ」・「公共文化施設の利用のしやすさ」「地域の人の人情の厚さ」の9項目が上位5位以内に入り、「バス、鉄道などの公共交通機関の利用のしやすさ」「気候、風土の面からみた暮らしやすさ」は平均以下であったが、そのほかの項目が平均以上であり総合的に市民の満足度が高いと評価されている。
日々の暮らし・生活実感から意外な感じもするが地元にいると見過ごし気付かない良さも多いということか…。事象には表と裏、光と影がある。また、地域を構成する自然と人の力が“外に出て来る”ことの出来事は常に変わり、永遠に同じ状態では存在しない。
今、盛岡市が取り組んでいる「盛岡ブランド推進計画」や「中心市街地活性化基本計画」など地域人の心と技が、柔軟且つ逞しい地域の表情として現出されることを期待する。
9回

『盛岡の道路問題の解決には・・・』 リレーコラム都市の鼓動 第8回 

                       (株)邑計画事務所代表取締役  寺井良夫 (技術士)

 盛岡を訪れた観光客からは「盛岡のまちはきれいですね」とよく言われる。しかしその盛岡も道路基盤には大きな難がある。全般的に道路が狭く、五叉路やT字路など変則的な交差点が多い。道路幅員が急に変化したり、見通しが効かないクランク状の道路も多い。こうした道路条件のなかで大量の自動車交通をさばかなければならないため、自ずと交通規制も複雑になっている。
 市内を自動車で走っていると、なぜこんなになっているのか?どうして直らないのだろう?と思わせるところが随所にある。 例えば、中央通りの幅広い4車線道路の先は、東側は市役所の建物で遮られ、北西側は梨木町で消えている。映画館通りを北上していくとだんだん道路が狭くなり、最後は北山で進入禁止となってしまう。岩手公園の脇、公園下の道路を南下して下の橋を渡ると、その先もやはり一方通行で進入できない。まちなかから東西南北、どっちへ行ってもこの通りのありさまだ。幹線道路をまっすぐ行けば、その先も必ず幹線道路に通じているだろうという感覚は盛岡のまちでは当てはまらない。国道396号の幅広い4車線道路を北上してバイパスを過ぎ市内に入ると、センターラインのない狭い道路になる。そのうえ、道路左端は北上川に転落しそうに思えるほどヒヤリとする場所がある。もう何年も危ない思いをしながらこの道を走っている。
 道路利用者にとって難易度の高い交通規制も多い。市街地と松園を結ぶ道路は、高松から緑が丘にかけての区間で、曜日と時間帯によって道路の中央線の位置を変更するリバーシブルレーンとなっている。加賀野の川留稲荷神社前の道路は一方通行で、しかも時間帯によってその向きが反転する。通常は普通に通れるが朝の通勤通学時だけ一方通行や通行禁止などの規制をしている道路は無数にある。普段は理解しているつもりの住民ですら、時に迷うことがある。
 昭和13年に都市計画が定められて以来、盛岡の道路整備は確実に進展はしてきている。それでもなお、盛岡の道路は不便でわかりにくい。全国の都市をみても、ここまで道路整備が遅れていて、複雑な交通規制でしのいでいる都市も珍しい。3本の川が流れ、城下町で、大きな戦災を受けていない都市ということが盛岡の道路の宿命としてある。不備な道路網は盛岡の弱点だが、しかし見方を変えれば、これも盛岡の特徴のひとつである。
 自動車交通を最優先に考える時代はもはや過ぎている。道路の拡幅や改良整備が必要不可欠なか所は確実に整備することが必要であるが、それと同時に自動車交通をこれ以上増やさない、さらには減らしていく「減クルマ」を進めることで道路問題を緩和する方途を探っていくことこそが今、求められている。
8回写真8回

『雲上の森の再生』 リレーコラム 都市の鼓動 第7回 

                                           村上 功(技術士)
八幡平で森の再生活動が行われている。活動の対象区域一帯は、旧松尾鉱山の露天掘りがおこなわれていた場所である。
かつて雲上の楽園といわれた松尾鉱山は、時代の変遷とともに硫黄鉱山としての役割を終えた。跡には廃墟と化した集合住宅、大地の傷跡とそこから湧出する強酸性の鉱毒水が残された。わが国の近代化の怒涛のなかで、豊かさを求めて活動を続けた、数十年間の結果がここにある。
しかし、いまここに立っても不思議と虚無感はない。むしろ未来を達観できる気がする。下界の空気と異質ななにかが感じられる。
現在も湧出する強酸性水は、中和処理施設の稼動によって、とりあえず水質は改善された。しかし、約百ヘクタールにおよぶ露天掘りの跡地は、覆土されたものの、もとの植生はほとんど回復していない。ここはかつてオオシラビソやダケカンバといった木々や、クマザサなどが地表を覆い、自然がかたちづくられていた場所である。
標高千メートルに達するこの地は、極寒、強烈な風衝といった気象作用にくわえ、強酸性の土壤などきわめて劣悪な条件下にある。このため自然の再生力による植生の回復はきわめてむずかしい。
この悪条件を乗り越えて,人間が撹乱したこの地に森を再生しようと、数年前から東北地域環境計画研究会などが主体となって、植樹活動が続けられている。現在、この活動には関係者にくわわって、多くの一般市民やその子供たちも汗を流している。
松尾
これまでダケカンバ、ナナカマド、ウリハダカエデなど数種類の苗木が植えられてきた。これらのなかには、厳しい自然条件に耐えきれず枯死したものもある。しかし樹種の選定や植栽方法、風除けなどの工夫によって、少しずつかつ着実に再生に向かっている。
一度撹乱された自然をもとの姿にもどすには、多くの人たちの地道な努力と時間を必要とする。ここは大人も子供も、過去の人間活動や自然の大切さを、再考できる良いフィールドといえる。(写真は7月に行われた「森の再生活動」の様子)
森がもっている機能はじつに多様である。自然の多様性、空気の浄化、水源の涵養など数えあげればきりがない。人はみな、無意識のうちに森の恩恵を日々、受けている。少なくても水と空気は、だれもが消費している森の生産物である。
岩手県は全面積の約8割近くを森林が占めている。この貴重な自然の財産を健全なかたちで後世に残すためにも、みなが森のもつ機能をもう一度認識し、大切に守り育てていくことが必要であろう。
いまはゆったりと時が流れるこの地で、いつか万葉に包まれる日を夢見ながら、森の再生活動がつづけられている。
7回

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