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人口はなぜ減少・移動するのか(都市デザイン論壇第15回) 

                        中澤昭典

人口減少が地域の将来に大きな問題となるという議論が続いている。人はなぜ集まり集落を形成しなぜ移動してゆくのだろうか。
人が集まり、集落が形成され都市へと発展するためには動機が必要である。人口移動の最も大きな動機は経済的な優位性である。農業、林業、漁業、あるいは鉱山など、経済活動に優位性があるところに人が集まり集落が形成される。そして、生産を拡大するため労働需要が発生し人口が増加する。生産が拡大すれば、物流や交換のため「市(いち)」が生まれ、それらを管理する「政治(まつりごと)」が行われる都市が発達する。
産業革命後には工業都市に工場労働需要が発生し、農村から都市部に人口は移動し、都市はさらに拡大発展した。都市人口を養う食料生産のため、開墾が行われて農地は山間部や沖積平野にまで拡大してきた。
大雑把に見ると20世紀まではこのようなトレンドの中で、人口が拡散し、都市は拡大してきた。
しかし20世紀の終盤から、地球規模での情報化や物流の発達により世界的な分業が急速に拡大し、新たな人口の流れが始まった。
先進国では、より生産性の高い3次産業に経済がシフトしてきた。GDPの3次産業の占める割合は、アメリカ79.4%、ドイツ69%、イギリス78.9%。日本も先進国の例に漏れず、3次産業が73.2%で1次産業の占める割合は僅か1.1%まで減少してきている。この結果、先進国では肉体労働から知的労働へと労働市場が変化し、さらに、生産部門の機械化や管理部門がコンピュータ化により効率化が進むと、労働市場全体の中でも少数精鋭化が進んできている。
さらに、サービス業などの3次産業は人口集積地にあることが有利であるため、地方都市から中核都市へ、さらに中核都市から大都市へと、これまでの分散の流れが反転して、都市への人口集中移動が始まってきている。
一方家庭では、子供の教育負担の増加などから少子化が進み、アメリカを除く全ての先進国で合計特殊出生率は2.0を下回ってきている。
このように世界中全ての先進国で、少子化と都市への人口集中が大きな潮流となってきている。
さて、このような大きな歴史の流れの中で、地域はどのようになっていくのだろうか。
岩手県の人口は100年前には80万人だったものが、高度成長期には140万人を超えた。しかし、1次産業や鉱山の衰退とともに減少に転じて、現在127万人まで減少してきている。盛岡市の人口も50年前には15万人だったものが、30万人まで拡大してきたがほぼ頭打ちとなっており、今後は徐々に減少が見込まれている。このように県内でも過去100年間は人口が大幅に増加し、これに対応するため、無理やり山を削り谷を埋めて人間の活動範囲を広げてきたのだったが、今徐々に縮小へと動き始めてきている。
このような流れの中で考えると、今始まった人口減少の流れは、産業構造の転換を反映して、過剰に拡散した人口を適正配置に戻すための調整と見ることもできる。
世の中の先を予測することは困難なことだが、大きな動きを鳥瞰してみることにより、そこから新しいトレンドを探し出し、新しい流れの中で次の時代に向かっていくことは必要だ。
人口や都市の問題においては、過去の成功体験にしがみついて無駄な投資を繰り返すことは避けなければならないが、必要以上に悲観論に傾倒する必要もない。街の変化や人口減少は世代をまたがって徐々に進行するので、短絡的な視点や政策に惑わされることなく、大きな流れや根本原因をしっかり把握して、じっくり腰を据えて取り組んでいく視点が求められる。
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近隣住区の都市デザイン(Urban design)の方法について~さあどうするこれからも盛岡第10回~ 

NPO都市デザイン総合研究センター理事長
(工学博士 岩手大学名誉教授) 安藤 昭

近年、我々は多くの危機に直面している。地球生態系保全の危機、社会規範崩壊の危機、社会組織溶解の危機、個人の心の空洞化をもたらす高度情報社会の危機がこれである。そして、2011年3月11日発生の東日本大震災は、これらのまちづくりの課題の克服を一層困難なものにしてしまった。
 そのため、都市計画法の新改正(平成4年;1992)によって、マスタープラン(基本方針)の確立や地区計画制度の拡充がなされてから23年、景観法の制定(平成16年;2004)から11年が経過したが、「都市計画」、「地区計画」、「近隣住区の景観・設計」という都市計画立案の一般的プロセスについて、首尾一貫した視座の下で実施したいという欲求が今ほど強く抱かれるときはない。
 ところで、都市を有機体として捉え、その構造を細胞的組織の結合体として認識し、計画概念としての近隣住区やコミュニティを有機体の健全な細胞的単位に類似させてデザインすることを主張したのはP.ゲデス(Patrik Geddes;1915)に始まると言われているが、住宅地の地区計画の原型として著名な近隣住区の理論(neighbourhood unit)は、その提唱者であるクラレンス・アーサー・ペリー(C.A.Perry)(1929)までさかのぼることができる。
C.A.ペリー提案の近隣住区計画はいわゆる地区計画そのものではなく、住居系地区の基礎単位に関する計画といえるもので、学校・公民館のような公共施設を地区の中心に配置して、近隣商業、公園を住居系地区の要所に合理的に配置し、自動車交通の影響を住区の中では極力減らすように街路網を構成する計画になっている。そのため、幹線道路は近隣住区の分断を避け、通過交通を防ぐように近隣住区の外周を通す。小学校を中心とする徒歩圏(半径1/4 Mail≒400m又は半径1/2 Mail≒800m)に居住する、校区人口(約1万人~5千人)を近隣住区の規模としている。
 C.A.ペリーの近隣住区の提案の評価には、1920年代のアメリカの都市の社会的背景を見逃すことは出来ないが、幾何学的で、閉鎖的な住区構成の提案はもはや現在の都市生活には適さないとするアイザックス、デューイ、ジェコブスなどの批判がある。一方において、コミュニティ計画の手法として枢要な部分を占めるとするルイス・マンフォードをはじめとする弁護者も多い。
ともあれ、高度情報化社会のもたらす生態学的、社会的、心理的心、つまり人類文化の様々な危機に直面して混沌としてきた今こそ、近隣住区の社会的機能ばかりでなく、住区をいつも眺め、その中で生活し、体験し、経験している、つまり住区を利用する人々の日常的な視点から整理し統合し、新たな生活景として再体制化(再構築)することが不可欠であると思われる。
さて,上述のような視点に立って,近隣住区の景観を人間(評価主体)と外界(都市)との間の視知覚的な関係性として捉えようとするとき,人間集団(コミュニティ-プライバシー)と都市の視知覚的環境(空間-景観)の2つの尺度を交差させると,近隣住区の大略の景観構成を描きだすことができる(図−1参照)。そして、本論では、図―1に示す ①生物的環境、②インフラ機能空間、③文化現象としての景観、及び④心理現象としての景観について、4つの視角から問題点と課題を浮き彫りにしながら、近隣住区の特性と都市計画マスタープラン(都市計画の基本方針)を基調に、①~④を時計回りにオーバーレイして逐次再体制化すれば、様々な危機に対して打たれ強く、機能的で、個性的で、美しい生活景が創造されることを提案しようとするものである。逐次付加される上層の機能ほど人間に特有のものであることは言うまでもない.
私が, 「都市とは人間(集団)の真の存在のための、胎生的進化の過程における風土の様相である」と定義して、市街地の用途別面積比率で約60%~70%を占める住居系地域の都市デザインに注目するのは、図―1の都市景観の構成の中に都市の本質と存在原理を見出すことができるからである。

図ー1都市景観の構成(その2)   近隣住区

日本一の中津川再発見〜さあどうするこれからの盛岡第9回〜 

日本一の中津川再発見
                都市デザイン総合研究センター理事 中澤昭典
「中津川は日本一の川である」。これは川の仕事に30年以上携わった河川技術者である私の個人的見解である。
 何がナンバーワンなのか。“自然が豊か?”、“安全性が高いか?”、“水質が良いか?”そういう基準に照らせば、もっと素晴らしい川は全国各所に存在する。それでは何をもって一番なのか。中津川は「人間と川がいい按配に共存している」というところが、日本一であると私が評価する点である。都市と川が、お互いに折り合いをつけて、それぞれを尊重しながら共存共栄しているのだ。
そのポイントを具体的に述べてみよう。
1.成熟した市民の意識が生み出す秀逸な都市景観「柵の無い川岸の道路」
中津川を川留稲荷付近から下流に向かって歩くと、中の橋までの間には川沿いの道路に柵がない。川岸の石積護岸は5分という急勾配で油断していると河原に転落する危険性もあるのだが、この近くで育った私をはじめとする盛岡市民はこの景色に違和感を持たない。しかし実は都市の中心部で車も通る河岸道路では非常に珍しい風景なのだ。「子供が落ちたらどうするんだ!」などど無粋な声を上げない成熟した盛岡市民の意識が生み出した、秀逸な都市河川景観である。
2.石積護岸が繋ぐ人工物と自然の不思議な調和“日常の秀景”
 中津川の護岸は花崗岩の石積である。与ノ字橋から中の橋方向を眺めてみよう。「水の流れ、団子石、河川敷、石積護岸、河畔樹木、橋、モダンなビル群」。石積護岸は時を経て、自然と人工都市景観の間を繋いで、不思議な収まりのある河川景観を創り出している。通勤・通学や買い物など、普段の生活の中でこういう風景に接することができる“贅沢”を盛岡市民は享受しているのだがその自覚はあまりないだろう。日常の当たり前の風景だからだ。就学や就職で盛岡を離れた子供たちが帰ってきたとき「盛岡はやっぱりいいなぁ〜」とあらためて感じるのはこういう風景なのだ。もっと評価して大切にすべき“日常の秀景”である。
3.市街地の広い河川敷を守る細やかな技術
 広い河川敷を有する川は珍しくもなんともない。しかし、市役所のすぐ裏手を流れ、市街地の中心部に広い河川敷を持つ川は稀である。そして、中津川の河川敷はあまり人工の匂いを感じさせない。しかし、全く工事が為されていないかと言えばそうではない。注意してみると河川敷を保護するために低水護岸が随処に設置されている。その工法は画一的ではなく、山岸小学校裏は籠に石を詰める工法、市役所裏の矢板工法や中の橋下流左岸部の巨石積工法など、目を凝らしてみると、水生生物や景観に配慮した技術がやり過ぎることなく、さりげなく施されている。川に対する畏敬のなせる技を見て取れる。

 このように、中津川は自然が豊かというわけではなく、社会と都市の変遷につれて、むしろ人工の手が多く加えられてきた川である。しかし、そのような変化の中で、川としてのアイデンティティーを守りながら人間生活環境と河川環境の折り合いをうまくつけてきている。
日本社会が近代化してきた過程において、都市のアイデンティティー構成要素としての川の存在感が薄れてきた歴史の中で、中津川はむしろその存在感を増大させてきた。今では盛岡の都市環境、都市景観を語る上で欠かせない。
橋の上から川を眺めるとき、川面を眺めるだけでなく、ちょっと遠くに視点を移してみよう。その時、あらためて我々は中津川が流れる、良いまちに住んでいることを再発見して幸せを感じるはずである。
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さりげなく清潔な街でありたい〜さあどうする!これからの盛岡(第8回)〜 

              都市デザイン総合研究センター 中村 正

春、レンゲツツジが際立っていたと思っていたら、今夏の立葵(タチアオイ)もとりわけ鮮やかで、清楚な盛岡を引き立てている。
盛岡を訪れる多くの人たちから「盛岡は道路にごみも少なく、緑も多く、清潔な感じがする。好ましい」とよく言われる。
ごみの集積場は、総じてどこも清潔に整頓されており、路上ポイ捨てなども見かけることは少ない。
散乱したごみを見かけることもあるが数時間後にはほぼきれいに始末されている。
先日、出勤途上のバス停で、無造作に捨てられたごみをさりげなく拾い、手にしたビニール袋に入れ、何事もなさ気に立ち去るご婦人を見かけた。きっとそうしたさりげない市井の人達の行為の重なりによって≪もりおか≫の清潔さは保たれているのであろう。
明治時代初期、盛岡に立ち寄った米国人E・S・モースの備忘録『日本その日その日・japan day by day』の中に、盛岡についての記述があったことを思いだし、読み返した。
『(福岡(二戸)を出てから‥‥)我々は狭い町を通って、大きな、そして繁華な盛岡の町に入った。町通の両側には、どっちかというと、くっつき合った人家と庭園とが並んでいる。立葵が咲き乱れて、清楚な竹の垣根越しに覗く。家はすべて破風の側を道路に向け、重々しく葺いた屋根を持ち、町全体に勤倹の空気が漂っていた。(‥‥)盛岡では河が広く、ここで我々は船に乗らなくてはならなかったが、船を雇うのには川岸にある製材所へ行けと教えられた。事務所は二階建で、部屋や衛生設備はこの上なく清潔であった。而もこれが、なんでもない製材所なのである!。 船と船頭とを雇う相談をしている最中に、実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶とが提供された。我々は盛岡にほんの短時間とどまり‥仙台に向け船旅にのぼった。』
「立葵。なんでもない製材所のこの上ない清潔。実に可愛らしい皿に盛った、ちょっとした昼飯とお茶。」に惹かれ、約150年前のさりげないおもてなしに新鮮さを感じた。これぞ盛岡らしいおもてなしだったのだろう。
美しい盛岡をめざし、国際化対応、国体を控えてなどの掛け声のもと、ハンギングバスケットの普及や草花による沿道修景など様々な取り組みがなされている。多くの市民も各戸でポット苗を育てたりし、それぞれに関わってきているのに、今一つ盛り上がり感に欠けるとの評は否めない。「美しい」は気恥ずかしいのが盛岡らしいからかもしれない。
『150年前から、さりげない(なんでもない)のが盛岡らしい』のだから。
いっそ『さりげなく(なんでもなく)清潔な街・おもてなしの街』を標題にした方が多くの市民が素直に「かかわりを表現できる」かもしれない。

(E・S・モース:明治初期アメリカから来た生物学者で東京帝国大学初代生物学教授。民俗学者でもある。日本ではあの「大森貝塚」の発見者として広く知られ、ダーウインの「進化論・種の起源」を日本に広く紹介した先駆者として著名)
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盛岡城跡公園からの岩手山の眺望の復元の意味を考える〜「さあどうする !これからの盛岡第7回」〜 

NPO都市デザイン総合研究センター理事長
(工博・岩手大学名誉教授) 安藤 昭
前回は,ポストモダンのまちづくりの目標は「近代化のまちづくりの修復にある」ことを指摘し、アウトドア・アクティビティ(野外体験活動)からのまちづくりの必要性について、特にスポーズ・ツーリズムからのまちづくりの必要性について述べた。今回は、同様の視点から、盛岡の都市のアイデンティティ(Identity)(個性)とは何かを検討し、表題の盛岡城城跡公園からの岩手山の眺望の復元の意味について述べる。
ところで、一般に近世城下町はわが国の都市の典型であると言われ、現在では、県庁所在地の都市の約7割が城下町起源の都市であることを認識しておく必要があると思われる。それでは、城下町起源の都市・盛岡のアイデンティティとは何であろうか。平山城として親しまれている盛岡城跡を眺望できることであろうか。あるいは、岩手山や北上高地に代表される大山高丘を展望する東部丘陵地帯があることであろうか。はたまた、清流・低丘の中津川、北上川、雫石川の3河川が市街地において合流し南下していることであろうか。
私は、これまで、城址仰望の盛岡城と大山高丘を展望する東部丘陵地帯と清流低丘の中津川、北上川、雫石川の盛岡の都市の骨格ともいうべきこれらの3つのタイプの景観が,それぞれにおいて視点―視対象、視対象―視点という相互関係をもって共存しているという優れて特殊な景観的構造をなしている点に注目し、この3つの景観の視知覚的構造が盛岡の都市アイデンティティであると考え、この視覚的構造をわかりやすくすることこそが城下町起源の都市盛岡のアイデンティティの創出であるということを一貫して強調してきた。
先日、平成27年7月上旬から始まる岩手教育会館の建て替えに当たって、盛岡城跡公園からの岩手山の眺望が復元されるということを知ったが、盛岡城跡公園からの岩手山の眺望の復元は、既に述べたように、盛岡の都市の骨格ともいうべき優れて特殊な景観的構造のアイデンティティを強め、都市のブランド力を増すという意味をもっている。そのため、この地点における眺望の復元は、盛岡市の景観行政の久々の大金星であると言っても過言ではないと思えるが、今後も持続的な眺望の確保が必要であることを考えれば、この眺望の復元という事例は今後の盛岡における「近代化の修復のまちづくり」のスタートであると捉えたいものである。
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写真-1 盛岡城城跡公園からの岩手山の眺望の確保
(7月初旬に撮影の予定;撮影筆者)

大通り商店街に賑わいを求めて ~さあどうする!これからの盛岡(その5)~ 

                 都市デザイン総合研究センター理事 鷹觜紅子
近年、大通り商店街を中心とする市街地の賑わいが薄れてきたと感じているのは、私だけではないと思う。
以前は、出来るだけその近隣に土地を買って家を建てる事がステータスであった。又、大通りの飲食店で一杯飲んだ後タクシーに乗らずに、歩いて帰宅できる市街地の中心部にマンションを所有することは他のものから見れば憧れに近いものだった。ところが、盛南地区の巨大開発により居住の場をその地に求め移住する人が増加した。市街地の中心部にあるからこそ意味があると思われてきたマンションも数多く建設された。大型ショッピングセンターや全国展開している店舗も同じである。自家用車を移動手段とする地方都市では東京等の大都市圏で売っているものがすぐ買えるとあって皆、足を向ける。その結果、中心と思われてきた大通り商店街がいつの間にか中心ではなくなっていた。
思い返せば、暑い夏休みや寒い冬休みには、大通り商店街に隣接する県立図書館のレファレンスルームの机を確保する為に、私も朝早くから並んだものである。面白いことに当NPOのNさんも並んだらしい。勉強もしたが、同世代の若者たちが集まるその場に、わくわくする様な何かを感じた。休みの時の私たちの居場所であった。図書館を出た後は、皆大通り商店街を通って帰宅の途についた。そしてまた翌日、同じ様に場を求めて図書館に足を運んだ。今、図書館は盛岡駅西口のアイーナに移転した。今も高校生達は、夏休みに限らず学校帰りにも、場を求めてアイーナに足を向ける。若者たちも大通りから居なくなった。
しかし、人の移動が変わったとしても昔から受け継がれている街は今もちゃんと存在している。まち角に立ってまち並みを見回したとき、心に訴え続ける景色がそこにはある。歴史があり、思い出もある。大通り商店街はあまり高い建物もなく、道幅も狭く、道路を行ったり来たりして買い物をし、個人商店のおじさんやおばさんと会話もできる人間スケールの丁度いい商店街だと思う。
今、新たにそこに若者たちが集まる場を創る事は難しい事なのだろうか?近くに川があり、城跡公園があり、自然を満喫できる場があっても、それは大人の場であって若者たちが求める場ではない。例えば、大通り商店街にある空き店舗の一部を若者たちの場として提供するのはどうであろう?ルールを決め、それさえ守れば何をしてもいい場所。子供が集まれば大人も集まり、歴史ある商店街に再び息吹を吹き込むことが出来るのではないだろうか。古き良き昭和の景色が、そこに見える様な気がする。
大通り 大通り1



子どもたちの記憶に残る「盛岡のまち」をつくる! ~さあどうする!これからの盛岡(その4) 

              都市デザイン総合研究センター 理事 佐々木栄洋

少子高齢化が本格化し、人口減少が続く我が国において、中心市街地の衰退は深刻な問題であり、まちの求心力を高め、中心市街地を活性化させようと全国各地で様々な取り組みが行われている。盛岡も例外ではないが、これまでの盛岡のまちづくりを評価する人は多い。これは盛岡のまちづくりが直面した問題に、関係者が真摯に向き合い、取り組んできた成果であり、脈々と受け継いできた盛岡人の心意気もあって、実現してきたのではないだろうか。  
しかしながら、盛岡のまちづくりも新たな局面を迎えていると感じる出来事が数か月前にあった。
この出来事に触れる前に、今から30年以上も前の、私の少年時代の出来事に触れたい。遠野市で生活していた私にとって「盛岡へのお出かけ」は一大イベントであった。親から「盛岡に出かけるぞ」と聞くと、飛んで跳ねるくらい喜び、はしゃいだ。残念ながら子どもの頃の記憶でいい思い出というのはあまりないが、盛岡に家族で出かけた日のことは今でも覚えている。わがままを言って親に怒られたとしても盛岡での一日は、いい思い出になっている。子どものくせに隅から隅まで大通りのことを知りたいと思った。子どもにも魅力的な「空間」が当時の大通りにあったと思う。
さて話は、数か月前の出来事に戻る。大人になり盛岡で十数年間仕事をした私は、今の生活拠点の遠野と同様に盛岡に対しても愛着心が強い。盛岡にはよく来るのに、いつも用を足すとすぐに遠野に戻るため、これまで家族と盛岡の中心市街地でゆっくりと過ごすことなどなかったが、今年の1月、息子と大通りでゆっくりと1日を過ごす機会を得た。この機会に息子にも大通りの良さを伝え、楽しい思い出となっている大通りで息子にも何かを感じてもらいたいと思っていた。しかし、大通りは当時とはあまりにも変わっていた。家族で楽しく過ごせる空間を見つけることができなかった。きっと息子も「魅力ある大通り」を感じることはなかったと思う。
岩手県内、そして盛岡には「まちづくりのプロフェッショナル」と呼ぶにふさわしい人がたくさんいる。しかし、まちづくりはプロフェッショナルと呼ばれる専門家のみがつくり上げるものではないし、専門家のみが都市問題を解決する術を持っているわけではない。住民の創意と知恵を結集することが必要である。すべきことは多いと思うが、子育て世代の力を結集し、大通りで一日を過ごそうとする家族連れが増えるような空間をつくり上げたい。今の子どもたちに盛岡の中心市街地の良さを伝えないと大変な時代が迫ってくる。子どもたちの記憶に残るまちづくりが今求められている。
大通り

盛岡地元観光にでかけよう ~さあどうする!これからの盛岡(その3)~ 

               
                都市デザイン総合研究センター 理事 中澤昭典
「盛岡は最先端の観光都市である」。それを理解している人は盛岡にどれだけいるだろうか?
 では盛岡の観光資源は何か?
その答えは戦後の都市計画の権威石川栄耀博士の次の言葉に中に見つける事ができる。
「盛岡は名都である。盛岡の観光資源は盛岡市そのものである」と。その意味するところは、「何となく心地よい街」、「何とはなしに美しい街」、その質の高い日常風景が都市観光の重要な資源であるということなのだ。
 ところで、都市観光の観光客はどこから来るのであろうか。東京都観光統計によると、東京を訪れる観光客の99%は国内から、そのうち都内から52%、首都圏近隣も含めると約70~80%、海外からは1%ちょっとだけなのだ。この傾向は京都でも同じで、観光客の70%は京都を含む近隣地域からである。
 都市観光とは「先ず隗より始めよ!」なのだ。
 それでは盛岡市民のための盛岡観光とはどんなものなのだろうか。
 私のお勧め盛岡観光のひとつを紹介しよう。
まず、都心循環バス「でんでんむし」に乗って街を眺めながら1周してバスセンターで下車。八幡宮にお参りしてぶらぶら歩きながら肴町商店街へ。中高年のブティック「みかわや」で普段着の買い物。商店街を出て信号を渡って「六文儀」で“シャンソン”と珈琲で一服。葺手町「お不動さん」の前を通って、駄菓子の老舗「関口屋菓子舗」、“しょうゆ団子”と“たんきり”がお勧めだ。
関口屋
昼食は近くの蕎麦処「若園」で好物の“やさい蕎麦”。店を出て向かいの「長澤屋」でお土産に“黄精飴”を買おう。紺屋町に抜けて“アンチック市”を冷やかしながら歩くとコーヒーの香りに惹かれて「クラムボン」へ。壁面を飾る市井の芸術家の展示を眺めながら自家焙煎の珈琲をゆったりと一服。そこから2分ほど歩いて「盛岡正食普及会」へ。歯の弱い人には勧められない最硬(?)のお菓子、“ロシアンビスケット”を購入。上の橋から鮭の遡上眺めながら川沿いの道を散策して、「ひめくり」で雑貨を物色。そうこうしているうちに日も暮れてきたところで桜山さんの「MASS」へ。滝沢の武田哲さんが合鴨農法で栽培したお米をかまどで炊いたご飯で夕食。お酒はもちろん合鴨農法美山錦純米吟醸「芳梅」。
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もう一軒と「みかんや」に間借りしている「クロスロード」でギターのライブを聴きながらバーボンを一杯。調子が出てきたところで中の橋を渡って「アッカトーネ」で本格多国籍料理とワインで今日の小さな旅の余韻に浸ろう。
 こういう心地良く質の高い日常が潜んでいる街が盛岡なのだ。
 さあ、でんでんむしと自転車と徒歩で、日常の中にさりげなくちりばめられている、きらりと光る小さな心地良さを発掘しに、盛岡地元観光探検に出掛けよう!
地元観光


美しく豊かで住みやすい復興まちづくりのために 

                 都市デザイン総合研究センター理事 阿部賢一

東日本大震災からまもなく4年を迎え、各地では復興事業が着々と進行し、宅地や住宅が完成し、新居へ住み替え本格的な生活再建へ踏み出している頃だろう。ここに辿り着くまでには、地元自治体や専門家、設計会社、住民が一体となり、多くの時間をかけてまちづくりのあり方を色々と検討してきたと思う。
しかしながら、その多くは、時間制約や地形的条件、予算制約などのために、本来行われるべき都市デザイン的な検討が十分行われずに、基礎的な住宅地としての機能や量を満たすために都市基盤整備が行われ、宅地が供給され、ともすると画一的、無機的な空間整備に止まり、美しく豊かで住みやすいまちという視点が不足している地区もあるのではなかろうか。
本来、まちづくりはそれぞれの土地の特性や気候風土を反映して、数十年、数百年の長い時間をかけて形作られるものである。また、優れた景観のまちでは、街並み形成や建築のルールが定められ、さらに、現地の伝統的な工法や技術、材料を活かしながら建築し、長い時間をかけて街並みを醸成し、これを地域の人々は大切に守り育ててきた。
さて、復興まちづくりにおいては、都市計画法の「地区計画」として建物用途や壁面線、建築物の形態又は意匠、かき又は柵の構造に関する制限が定められている地区が多い。しかしながら、地区計画だけで優れた景観の住宅地が形成されることは難しい。地区計画に加えて、「建築協定」、「緑化協定」などを制定すると共に、住民自身が美しい街並みを形成するという共通の意思が重要となる。
また、街並みの景観形成においては、建築物の形状や材料などが大きく左右する。さらに、樹木が街並みの美しさを形成する大きな要素となる。基礎的な基盤整備の当初から豊かな植栽を施すことが難しい場合、将来の生育を見込んで街路樹やのり面、宅地内などに植栽を施すことによって数年後には緑豊かな潤いのある街並み景観を創出することになる。また、建築などの素材はできるだけ地場産材を活用することにより地域になじんだ、やわらかい統一感を醸し出し、美しい街並みが形成される。
全国一の森林資源に恵まれた岩手県では、森林組合や建築士事務所協会、工務店などが中心となり、地場材の活用による被災者向けの寒冷地・高齢者・低価格仕様などの住宅開発に取り組んでいる。これがもっと地域内に展開することによって、美しい街並み形成だけでなく、地域資源の活用による産業の振興、雇用の場の創出、地域内経済循環構造の形成につながるものである。                                                            これからも子々孫々は、この地で数百年、数千年にわたり生活をするわけであり、愛着を持てる美しく豊かなふるさとを再生していくことが重要であり、さらに復興まちづくりを進めてもらうことを願うものである
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さあとうする!これからの盛岡(その2)アウトドア・アクティビティからの観光まちづくり —2020東京オリンピック開催決定を契機に— 

                NPO都市デザイン総合研究センター理事長  
                 安藤 昭    Akira ANDO
                    工博   岩手大学名誉教授
      アウトドア・アクティビティからの観光まちづくり
       —2020東京オリンピック開催決定を契機に—
 
 近年,我々は多くの危機に直面している.地球生態系保全の危機,社会規範崩壊の危機,社会組織溶解の危機,そして個人の心の空洞化をもたらす高度情報社会の危機がこれである.そして,2011年3月11日発生の東日本大震災は,これらまちづくりの課題の克服を一層困難なものにしてしまった.西洋文明圏の都市を追って間もなくポストモダーンに突入する日本文明圏の都市の重要な課題は上述の「近代化の克復」であると言えよう.
 このような中,幸運にも2013年9月8日,7年後の2020年に「オリンピック・パラリンピックの東京開催」が決定した.周到な準備をされた関係各位の歓びは言うまでもないが,2014年11月21日にオリンピック委員会によって「一国における複数都市での開催が可能」と決定されたことから,現在は国民の参加意識を高められるかどうかが課題となっている.
 ここでは2020年の「オリンピック・パラリンピックの東京開催」を,わが国の近代後半におけるまちづくり課題克復のための好機として捉え,ここでは,アウトドオア・アクティビティ(Outdoor activity)からのまちづくりを提唱したい.中でも,東日本大震災後の人口減少・少子高齢化の著しい東北地方の市町村においては,「新しい東北の創造」「成熟社会」「スポーツ」「健康福祉」「ゆとり・安らぎ」をキーワードとするアウトドア・アクティビティからのまちづくりが,特にスポーツ・ツーリズムからの観光まちづくりが望まれる.
 ここに,アウトドア・アクティビティとは野外体験活動のことで,陸上競技,サッカー,ラグビー,テニス,ゴルフ,ワンダーフォーゲル,ラフティング,カヤック,アルペンスキー,パラクライダー,キャンプ,ハイキング,登山,トレッキング,釣り,海水浴,ピクニック,山菜取り,バードウオッチング,森林浴,家庭菜園,農林漁業体験等がある.環境教育や野外学習さらには自然体験を含むとされる.
具体的には,対象領域(テリトリー)が10,150㎢と,現在,世界最大の規模であるスエーデンのベルクスラーゲンエコミュージアムの7,500㎢を上回る規模を有する北上川博物館(愛称;アイポート)に注目し,これに野外体験活動を含むサチライトを随所に導入して新たな北上川銀河博物館として再構築することが考えられる.このような観点から,盛岡の市街地を貫流し,背景に秀峰岩手山を随所に戴く北上川上流域の観光ラフティングによる盛岡・北上川の地域ブランド化事業等のスポーツ・ツーリズム事業の今後の展開は大いに期待されると言える.
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 北上川博物館構想 スポーツツールズム



         

伝説の横丁桜山界隈―さあどうする!これからの盛岡(その1)― 

                都市デザイン総合研究センター理事 中澤昭典
パリといえばカフェ、ロンドンといえばパブ、日本といえば居酒屋、盛岡の居酒屋といえば桜山界隈。桜山界隈といえば、今や全国的にその名を轟かせる伝説の横丁である。
そのロケーションは、正面に南部藩の城跡に鎮座する桜山神社、左右には盛岡城の外堀跡の鶴ヶ池と亀ヶ池。さらにその外周には県庁、市役所、裁判所、新聞社、警察、消防などを従える堂々たる佇まいだ。
その内部構造も理にかなって素晴らしい。中央に鳥居をくぐる桜山神社の参道、外縁の道路はウォーターフロントで、鶴ヶ池側は柳の緑、亀ヶ池は桜が囲み、水面がピンク色に染まる桜吹雪は花見の名所となる。
外縁と参道の間には路地があり、この小さな横丁界隈にさらに細分化されたいくつかの空間を創り出し、角を曲がった向こうや、建物の裏側などの「見えないあちら側」が怪しい期待感を醸し出す。また、「小さな空間」がいくつも集まって複雑な「小さな複合空間」をつくっているため、その内側に入ると、“内輪感覚(コミュニティー)”と、その反対の“雑踏の中に匿名性を得て楽しむ孤独(プライバシー)”、の両方を得ることができるのだ。このことがこの狭い界隈に不思議な奥行きと厚みを創り出す。さらに、昭和ノスタルジー漂う正統派の居酒屋から若者が集うカフェ、蕎麦屋、薬屋、酒屋、食堂、喫茶店が混在し、この雑多な感覚が「背広姿からジーパンTシャツでもOK」と老若男女を惹きつけ、今や盛岡の観光スポットとしても注目を集めるに至った。
さて、ところがであるが、このエリアは国史跡、都市計画公園の指定区域内にあり、将来的には緑地とする計画がある。数年前に議論が持ち上がったが結論が出ず、とりあえず保留となっているが、建物が老朽化してきても建て替えができず、最近火事があった場所は再建できずに歯抜けの状態になっている。
さて、どうしたものだろうか。
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史跡復元のため江戸時代の土塁を復元して緑地とする案が出されているようだが、史跡とか文化財というものはガラスのショーケース越しに眺めるのでは過去の遺物・残財に過ぎなくなる。市民が触れて使い込んでこそ生き生きと磨きがかかり史跡も喜ぶのではないだろうか。
今や日本の代表的な若者文化の発信基地となっている、新宿や下北沢もヤミ市起源横丁から発展してきたものだ。
戦後の街づくり繁華街文化の原点、ヤミ市横丁の生きる伝説とも言えるこの界隈を、盛岡の酒食文化の発信拠点としてもっと磨き使い込んでいくのも一考と思うがいかがなものだろうか。
伝説の横丁

人口減少対応は慌てずに 

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復興へのマクロの視点~スマートシュリンクと連携による新しい地域再編~ 

【復興は原状回復で良いのか】
震災から1年半が経過し、社会全体が少し冷静に事態を見られるようになってきた。
「被災者・地域住民の視点」に加えて、「俯瞰的・広域的な視点」から物事を考える余裕が出てきた。そして、そこから新たな課題も浮き彫りになってきている。
 岩手県では被災した沿岸12市町村が復興計画を策定し、これを基に復興事業が始まりつつある。すなわち敢えて言えば、沿岸12市町村合わせて人口約25万人の地域に、12個の細切れの復興計画を策定し、それぞれに「原状回復」と「発展」が盛り込まれて独自に動き始めようとしているように見える。
一方、社会保障・人口問題研究所が発表した平成20年12月の推計では、この沿岸地域は2035年には人口が30%以上減少し、高齢化率は45%前後になると予測していたが、今回の震災でこの数値はさらに上昇すると見られる。この状況は具体的には、過疎地の拡大や限界集落の増加、都市部では空き家の増加、商店街の衰退、生産性の低下、産業衰退、介護負担の増加、等が顕著になるということである。被災地の主要産業である水産業や食品加工も人口動態と同様に、震災前から厳しい状況に置かれており、国内は元より海外とも激しい競争や晒されてきて、地域のみで完結するものではなくなっている。
 細分化された地域での「原状回復」とは、こういう厳しいトレンドに戻すことであり、「発展」は絵に描いた餅になる可能性が大きい。
 すなわち市町村毎のミクロの視点では、現状から脱却する方策を打ち出すことは難しいように私には思える。
【スマートシュリンクと広域連携】
 それではどうすれば良いのだろうか。
 そろそろ拡大発展の夢物語を捨てて、現実に目を向けて新しい選択を行う必要があるのではないだろうか。新しい選択とは、人口減少という現実を受け入れて、「縮小社会」という新しい地域の将来像を描いていくことである。すなわち“スマートシュリンク(賢い撤退)”を考えることが必要になる。
 既に始まっている高齢化と過疎化に対処するためには、集落の再編・集約を行い行政サービス・都市機能の効率化を図ることを真剣に考える必要がある。医療、介護、教育、商業施設、文化施設などは小規模な地域で単独では維持できなくなっている。このため、沿岸のみならず内陸部を含めた広域連携の中で、役割を分担して担うようにすることが必要になろう。役割を分担再編する中では、核となる都市・市街地のリノベーションも行われなければならない。
 撤退・再編・集約は、外科手術のようなもので地域に痛みを伴うことになることから大きな抵抗が生じる。しかし、コンパクトに集約して効率化された地域が構築できれば、人口が減少し経済力も縮小してゆく中でも、社会基盤を維持しながら地域力を高めて、住む人が幸せに暮らせる地域を形成出来る可能性がある。
 住む人が幸せな地域は人を惹きつけ、新たな展開が始まることを期待させるところになるのではないだろうか。
今回の震災は、人口減少という我が国の歴史的大転換点に時を合わせて遭遇したもので、その復興にはこの地域では歴史上最後となるであろう膨大な予算が投入されることになるが、これを単なる復興に終わらせるのではなく、我が国の社会再構築の契機と捉え、思い切った新しい社会モデルを提示することが待望される。それが出来れば、沿岸地域は社会の注目を浴び再び輝きを発揮する可能性がある。逆にそれが出来なければ、地域の将来は開けないのではないだろか。
<中澤昭典>

東日本大震災特別寄稿―新たなまちづくりへ― 

広域都市計画の視点が課題 ~軸状分散連携型コンパクトシティーの提案
                               北海商科大学大学院教授 安藤 昭
 
 近年,我々は多くの危機に直面している.地球生態系保全の危機,社会規範崩壊の危機,社会組織溶解の危機,そして個人の心の空洞化をもたらす高度情報社会の危機がこれである.そのため,人間とそのありようの総体を「都市デザイン」という一貫した視座の下で捉えたいという欲求が今ほど強く抱かれる時はない。そのためのポストモダーンの都市デザインの基本コンセプトは「近代化の修復にある」といっても過言では無いであろう。
 言うまでもなく、都市デザインの要諦は計画対象都市の将来人口を推計し、将来の産業構造を想定して、土地利用の計画・設計を策定することである。然るに、平成17年7月7日現在と平成18年4月1日現在の日本の人口データー(住民基本台帳人口)を基に、近年の都市人口の増減の特徴を検討すると、首都圏人口の人口爆発が著しいことに加え、人口6万~7万人の都市62都市の43%が人口減少であるのに対して、人口5万~6万人の都市78都市の64%が、人口2万3千~5万人の都市21都市の95%が人口減少を呈していることである。このような中で、平成17年7月7日現在の岩手県沿岸域の主要都市の人口規模は宮古市(6万2千人)、釜石市(4万5千人)、大船渡市(4万4千人)、陸前高田市(2万6千人)となっており、4市を合計しても17万6千人程度であり、特例市の条件である人口20万人にも満たない状況にある。
 そのため、少子高齢化地域である岩手県沿岸域の50年から100年先の将来を見据えた「新たなまちづくり」のためには、この点を十分認識し、第一に、三陸鉄道南リアス線・JR山田線と三陸縦貫自動車道を早急かつ抜本的に整備し、既述の沿岸主要都市相互間の走行距離が1時間圏程度の「軸状分散連携型コンパクトシティ」の都市を構築することを提案したい。加えて、東北新幹線・三陸鉄道北リアス線及び沿岸航路とのネットワーク化を積極的に図ることも必要である。その結果、当地域の都市相互の機能分担が促されるとともに、都市機能の再体制化(再構築)がなされ、特例市に相当する潜在力と駆動力を発揮することが期待されるからである。
 第二に必要なことは、沿岸主要都市及び主要都市間に散在する町村の住民の生活と生存を保障する機能を都市という集住形態の文化秩序としてまとめることである。現在は平成の市町村大合併(市町村合併特例法の施行:平成7年~平成17年)から間も無く、しかも、大震災という非常時であるため、住民の合意形成にはある程度の時間が必要であることを念頭におきながら、以下に、ひとつの『都市デザインの現代的な方法』(図―1)について述べる。
都市デザインの現代的な方法
 まず、岩手県沿岸域における大震災後の様々な問題を含むありのままの都市の情況について、図―1の上段に示された「解釈モデル」の4つの視角から、つまり都市の1.生物的環境(客観的)、2.インフラ機能空間(間客観的)、3.文化現象としての景観(間主観的)、4.心理現象としての景観(主観的)の視点から、地域住民、NPO,専門家、民間企業及び行政等との切磋琢磨した議論を通して、現状の問題点を浮き彫りにし、対象都市の計画・設計の目指すべき方向性、理念(目標)を設定することである。
 ここでは、大震災後の、生物多様性の視点からの植物、動物(鳥類、獣類、虫類、魚類)に対する生態系の科学的調査、津波防災計画及び沿岸域特有の谷地形の土地利用秩序の検討、アーバン・インフラストラクチャー(都市の骨格的施設)デザインからの検討、(人間の価値体系の鏡である)歴史と伝統文化を蓄積するための持続可能なまちづくりからの検討、個性的で美しく潤いのある景観デザインと近代化に伴う人間の心の空洞化の修復と大きく関わる観光まちづくりからの検討は必須である。
 次いで、実際の都市の計画・設計において必要となる情報の収集を行い、都市及び地区の特性を明らかにし、都市のデザインテーマを決定することである。 
 そして、地区特性と都市のデザインテーマを基調に、図―1の下段に示された「デザインモデル」に従って、つまり、都市全体のあり方を規定するマクロ構造に関するデザインと地区の公共施設、街路、オ-プンスペースや宅地、建築物等のつくり出す空間の意匠や形態のデザインに関するミクロ構造のデザインの2つの局面の都市景観に対して、感性的及び理性的の2つの段階から接近し、これを統合する必要がある。いわば、都市はデザインモデルに示されるⅠ~Ⅳの4つの段階を通して重層的にデザインされることによって再体制化(再構築)されるといえる。
 ここでは、都市再構築のシナリオとして、生態象徴(エコ・シンボル)的秩序の形成と自然との共生社会の復元・再生の意味涵養のための風土イメージの調査、及び調査結果を踏まえた環境アセスメント、街路パターン(軸状、梯子状、帯状等)と街路のデザイン[自転車道の整備、津波避難路の設計(平面分離か立体分離か)、津波避難路の総合サインのデザイン等]、津波避難を念頭においた土地や建物の配置と形態に関する空間と景観のデザイン、行政施設、文化施設(大震災の記憶の保存と都市の復興拠点施設となる津波博物館他)及びスポーツ施設の計画と設計、地域振興効果において極めて性格の異なる「道の駅」と「エコミュージアム」を統合する中小都市の核心の再生、徒歩を基本とするコミュニテイーアクティビテイプラン、波の音、潮の香り、住民の人情味、親切心などの安らぎ感とアメニテイ(環境の快適性)のデザイン、広域国際交流圏形成のためのリアス・シーライナーの早期の整備拡充が指摘される。
 以上のような、地域連携軸の形成と都市の「解釈モデル」と「デザインモデル」からの検討を踏まえた“新たなまちづくり”を展開することこそが、現在直面する多くの危機を克服し近代化の修復に繋がる持続可能なまちづくりになるといえよう。
 

『都市の秩序Ⅳ』 リレーコラム 都市の鼓動 第52回  

    NPO都市デザイン総合研究センター理事 北海商科大学教授 工博  安藤 昭
     
       
 都市の内的秩序を創造するための都市景観設計の体系化の研究にとって、既に4万年前にはその進化を止め、都市の胎生的進化にとって大きな潜在力と駆動力になった人間の脳と心の発達と都市の胎生的進化のアナロジーについて検討することは非常に有用であった1)
 ここでは、都市の秩序Ⅳとして、都市間の秩序と都市の安定成長をシステム論的に解釈するための手掛かりを得ることを目的に、銀河系の散開星団(比較的若い恒星の集まり)と都市群の進化のアナロジーについて検討する。
恒星の一生(星の進化2)[2]
「図ー1 恒星の一生(星の進化)」 
図-1は有名なHR図(ヘルシュブルング・ラッセル図)2)を基に、恒星(以後星と記述する)の進化、つまり星の一生をわかりやすく示したものであり2)、表—1は太陽の質量を1とした場合の星の質量と星の進化の関係を示したものである。表—1の右列には、これらの星の質量と類比させて、筆者が作成した都市の人口規模を示す。ここでは、わが国の市制施行の基準である人口5万人の都市を太陽の質量1に相当するもの、つまり夜空に輝く星となるものとして整理している。
 人間に誕生と死があるように、夜空に光り輝く星にも誕生と死がある。図—1及び表—1に大略示されるように、太陽質量の0.08~4倍では、輝く星は⇨赤色巨星⇨白色矮星⇨黒色矮星になり、太陽質量の4~8倍では、輝く星は⇨赤色超巨星になり⇨超新星爆発の後、星間ガスになる。また、太陽質量の8~30倍では輝く星は⇨最後の超新星爆発の後、中性子星と呼ばれる小さくて重い天体となる。そして、太陽質量の30~150倍では、輝く星は⇨中性子星もそのまま姿を保てずに最後にブラックホールとなり、太陽質量の150倍以上になると、超新星大爆発の後に、ブラックホールになるという。つまり、星の寿命が長いか短いか、またどのような形で最後を終えるかは、その星の質量でおおよそ決まり、一般に、質量が重ければ、星の一生は短いが華々しいものになり、軽ければ、地味だが長い一生を送ることになる。
表#8212;1 恒星の一生と都市の胎生的進化
 上欄に示した都市の人口規模については、古代の都市アテネの紀元前4・5世紀で、約4万人(奴隷・外国人を含めると約10万人~15万人、姉妹都市の人口は3千~4千人)。ローマは3世紀末で70万人~100万人(ローマ植民都市は5万人以下)。唐の長安100万人、平城京約10万人、平安京約20万人。中世の都市には超都市がまったくなく、13世紀、14世紀で10万人~15万人程度、コンスタンティノープル100万人。近世の城下町の代表的な都市規模である松江、高知、会津若松、姫路の人口は2〜3万人、江戸の18世紀当初で100万人程度。18世紀のロンドン100万人、パリ64万人、19世紀後半のロンドン424万人、パリ225万人、ニューヨーク190万人、東京78万人。20世紀末(1990年)で東京2337万人、メキシコシ・シティ2050万人、サンポウロ1877万人、ロンドン1040万人、パリ868万人であることを参照して、既述の星の質量に類比させて作成したものである。人口規模の小さい方から、大略、町村(3万人以下)、小都市(3万人~10万人)、中都市(10万人~50万人)、大都市(50万人~100万人)、メトロポリタン・エリア(300万人~500万人),スーパーメトロポリタン.エリア(1000万人~2500万人)とした。
 表1の結果から、夜空に安定して輝き続ける無数の星のように、人口爆発と都市爆発を抑制し、今後とも持続的な都市間の秩序ある姿を希求するならば、都市の適正な人口規模は5万人~1,325万人となるとは言えまいか。

参考引用文献
1)安藤昭・赤谷隆一:感覚統合理論による都市景観設計の体系化、
 土木学会論文集No.653,Ⅳ-48,2000
2)渡辺潤一・坂本志歩:宇宙のしくみ、pp.104~105、新星出版
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『都市の色をつくる』 リレーコラム 都市の鼓動 第51回 

竹 原 明 秀
 JR東日本は緑,日本郵便は赤というように企業や団体などの組織にはコーポレートカラーあるいはシンボルカラーがある。組織のイメージやコンセプトを示すことが多く,企業の社風や組織の雰囲気を指す場合もある。我々の身の回りには看板をはじめとし,製品パッケージ,ユニホーム,ウェブサイトのデザイン,広告など,目にするすべてが企業のシンボルカラーによって満たされているともいえる。
 では,都市の色は存在するのだろうか。街全体が単一若しくは同系色でまとまっている場合,その色は街のカラーともなり,訪れる人々に強い印象や共通のイメージをもたらす場合が多い。色の統一感は,景観を形成する上で好ましいイメージを与えさせ,街全体がある一定の秩序の元にあることを実感させる。
 街全体が統一された色を待った地域として,地中海沿岸の「白い街」は有名であろう。青い空と紺碧の海に挟まれ,白い壁からなる家並みは多くの観光客を引き寄せ,強い印象を与える。この白は石灰岩を主体とした地質やオリーブを生んだ地中海性気候といった地域特有の自然環境に基づくもので,自然との調和の中から生まれた合理性のたまものといえる。一方,インドにはピンク・シティと呼
ばれるジャイプールやブルー・シティと呼ばれるジョドプールという街があり,人工的に着色された々や看板,ひいてはその色の商品まである。これは街を支配したマハラジャの命令を起源とするが,現在でも変わらぬ人々の忠誠心がそこに存在する。
 では,わが国の都市の中で統一された色からなる街はあるだろうか。思いつくものとして金沢の黒(瓦),倉敷の白(壁),岡山県吹屋のベンガラ色(暗い黄みの赤)など,歴史都市や重要伝統的建造物群保存地区などにある。金沢の場合,卯辰山から見る東山茶屋街の家々は黒瓦からなり,日光が当たると渋く輝き,その存在感をアピールする。あるいは吹屋を散策すると赤銅色の石州瓦とベンガ
ラ色の外観で統一された家々は,日本では珍しい赤を強く印象づける。両地域を彩る街の色は,江戸末期から明治時代にかけて地域の風土や産業から生じたもので,街の色がそのまま,街のカラーとして現在,通用する。
 さて,盛岡の街には統一された色はあるのであろうか。市内には23件の歴史的建造物が存在するが,いずれもが単発的なもので周囲との色の連続性は認められない。むしろ,特定マンション業者による建物の外壁色が,統一感を出している場合すらある。これは企業のカラーが都市を彩り,街が企業に乗っ取られたのではと,疑問を持ってしまう。市では「盛岡ブランドの確立」のために,「お城を
中心としたまちづくり」や「街並み景観政策の推進」など,積極的に取り組んでいるという(盛岡市ホームページ「市長からのメッセージ」)。自然環境と風土に見合った街の色を考えていく必要があろう。そのヒントになるものとして二つのひし形を直角に交差させた市章がある。その色は緑色である。さらに岩手県の県旗は地色を納戸色(深いブルーグリーン)と定めている。つまり,緑色が盛岡市・岩手県のカラーである。これを地域の雰囲気を表すカラーとするのではなく,街の色として積極的に採用するのもひとつの選択肢ではないだろうか。ただし,人工的に彩られた緑色は信号の青以外,ほとんど身の回りにない。街の中に杜の都を復活させることが都市の彩りになるのではないだろうか。
ちなみに岩手大学のイメージカラーも若草色で緑色であるが,それを知る人はほとんどいない。
51回  51回


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竹 原 明 秀 Akihide TAKEHARA
岩手大学人文社会科学部環境生物学教室
Fac. Human. & Soc. Sci., Iwate Univ.
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『古い街並と若い人の想い(提出されたレポートから』 リレーコラム第50回 

                               岩手大学教授 藁谷収
 私の勤務する大学で「造形表現の指導」という科目の授業を4月から行っている。美術科の学生対象で演習授業である。制作の根拠を机上ではなく、街を歩き新たな出会いの中で、制作イメージを膨らませて行くことを求めている。課題としては盛岡の古い造形物、建物、神社仏閣を中心に調査し、残って行くもの、忘れ去られて行くものに、自分なりの想いを馳せレポートを提出。可能であれば自らの制作の糸口を辿ってみてほしいというものである。4月から歩き始めたコースは、高松の池の神庭山にある横川省三の台座を見ながら、南部藩の菩提寺を下り、北山報恩寺にて横川省三像原型に度肝を抜かれる。そして、五百羅漢でマルコポーロ、フビライハンに謁見する。さんさ踊りの三石神社と、名前に引かれ遭遇したムカデ姫の墓。中津川の川縁を歩き、初めて立つ川の合流点。6月になって北上川を下り、明治橋から昔の賑わいの惣門跡、鉈屋町と授業を進めて来た。今回の鉈屋町界隈のキーワードは水と石である。どんな出会いが待っているか楽しみである。受講生秋田県能代市出身の2年生大山奥人君のレポートの一部を紹介します。

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鉈屋町界隈のレポート
岩手大学教育学部芸術文化課程2年 大山奥人

 盛岡市鉈屋町の特徴として、町家のもつ歴史的な風情が感じられる所である。
町家における建築物の種類は様々で、豆腐屋や蕎麦屋、いくつもの酒蔵に昔からの酒場、麹屋や鍛冶屋等があり、当時の雰囲気がそのまま残っていて町家ならではの暮らし文化が根付いているのが伺えた。その他にも盛岡城の名残を感じさせる惣門跡や、昔から界隈の人々に利用され続けてきた大慈清水、歴史的な建築物や文化的な営みを感じさせるものが多く、町家も含めて盛岡に根付いている先人たちの生活臭というものが感じられた。また鉈屋町において、「盛岡まち並み塾」という盛岡の歴史的生活環境、建築、そして地域に根ざした生活の知恵を学び、人々に伝承させる活動をしている団体があり、定期的なシンポジウムや訪問見学会の開催や、まちづくりの計画発案や作成、研究、盛岡町家における歴史的生活環境の啓蒙などを行っている。
今、新たなるものが開発されて古いものの影が薄くなりゆく状況において、鉈屋町はその風潮をまるでかき消すかのように歴史的な風情を感じさせる町並みを残し、今も昔も変わらぬ生活環境を築いているのは、鉈屋町界隈に住む人々がこの町並みを持続してきたことに他ならないのでは、と感じた。今回は鉈屋町のほかに大慈寺町近辺にも足を運び、町一帯の寺院群にも訪問した。
この界隈一帯はおおよそ10もの様々な寺院が立ち並んでおり、総理大臣の原敬、米内光政が奉られている大慈寺や円光寺、幽霊の絵がある永泉寺、彫刻作品のある祇陀寺など、多種多様である。また、今は無き宗龍寺には十六羅漢像が置かれており、現在は五智如来像を含め21体の石仏が羅漢公園に見守られているかのように設置されてある。この十六羅漢は四大飢饉(元禄、宝暦、天明、天保)における大凶作による餓死者への供養として建立された。
総理大臣の墓や重要文化財が残されている寺院群のある町並みからは、前述したように鉈屋町や大慈寺町界隈の風情や景観を作り上げていると感じた。例えば十六羅漢像が置かれてある場は公園で、いわゆる市民の憩いの場的存在に重要文化財の彫刻作品が置かれてあることは、その町の対象、シンボルとしてふさわしい。私事であるが、前回の調査で行った報恩寺の近辺も盛岡の寺院群ではあったが、鉈屋町近辺と中央通り近辺の違いからか、2つの寺院群では雰囲気の違いを感じた。盛岡の主要な発展を遂げている県庁付近に位置する名須川町と比較して、歴史的、文化的な町家がある鉈屋町近辺の寺院群は、その風情を壊すことがなく治まっている雰囲気があると思った。また、入り組んだ路地が多いことで報恩寺がある道路沿いの寺院群とは違った表情を持った寺院群であるとも感じた。
参照文献
【まちあるき~盛岡】
http://www2.koutaro.name/machi/morioka.htm
【盛岡町屋と盛岡まち並み塾~「コミュニティカフェ・cafeマイスター養成」プロジェクト】
http://www.e-etown.com/project/report/morioka.html
【盛岡まち並み塾】
http://www.geocities.jp/moriokamatinamijuku/
鉈
鉈屋町界隈(撮影大山奥人)

大慈寺
黄檗宗大慈寺山門(撮影大山奥人)

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このレポートに、50数年ここで暮らし続けて来た私とは、もちろん違った見方をもち、そして確かな分析力を感じる。これを期に様々な出会いと、悩みを抱えながら、どんな表現の提案が出てくるか期待したい。鉈屋町は水の町、二つの清水に時の流れに耐え残った空間が息づいている。今年も暑いお盆の夕暮れに、ふなっこ流しの揺れる炎の季節がもうすぐである。
50回


『自分の山の木で家を建てるということ』 リレーコラム 都市の鼓動第49回 

                                    鷹觜紅子
仙台平野を通り過ぎて、トンネルを抜けると車窓の両側に山々が連なる。

  それを見て「ああ、岩手に帰ってきた」と感じる。人々の心を和ませてくれる緑に覆われた山々。県土の約8割が森林という岩手県。果たして、いつまでこの素晴らしい景観が、保たれるのだろうかと思う。

  前回は、自分の家から見える山の木で、家を建てた時の事を書かせてもらったが、今回は、自分の山の木で家を建てた時の事を書かせてもらう。
  終戦後、山を所有する多くの人達が、赤松や唐松の苗木を植林した。 植林後、50~60年経った木は建築用材として、充分すぎるほどの伐期齢に達している。

  「おじいさんが植えた木を大事に使ってください」という建主さんの依頼で始めたこの仕事、私にとって建主さんの山の木を使って家を建てるのは、2回目である。34年間この仕事をしてきて、まだ2回しかない。(外国産の木材がこれほど利用される前は自分の山の木や近くの山の木を使って家は建てられていた。確かに欲しいものが欲しい時にすぐに手に入る外国産の木材のほうが、家を造る人にとっては便利かも知れないが…)
 
  私は、この2つの仕事を通して切実に感じた事がある。

  自分の山の木を使って家を建てるという事は、工事費に占める木材費の比率が低くなると思っている人が多いと思う。しかし、実際はそうではない。むしろ高くなる傾向がある。それは自分の山の木は主に構造材(土台・柱・梁等)と仕上げ材(床・壁等の板材)として使われる。自分の山の木なのである程度、長さや断面も指定できる。長いものや太いものを使いたい時は事前に話をすればその様に伐採してくれる。

  構造材が立派になれば購入しなければならない造作材や建具材、そして仕上げ材も、おのずとそれに見合ったものになってくる。結果、相乗して全体の木材費が高くなる傾向がある。

  そして、何よりも自分の山の木でもただではない。

  まず伐採費が1,440円/立方㍍、切った木を運搬する費用が1800円/立方㍍、そしてそれを運搬する費用が1800円/立方㍍、製材費が1万6500円/立方㍍、乾燥費が1万円/立方㍍、表面処理費が7000円/立方㍍、そして諸経費・造林負担金等が20数%と、自分の山の木を使っても約4~5万円/立方㍍程の費用がかかる。

  しかし、この金額は決して高いものではない。平均の直径が33㌢、長さが9㍍の木を1本切る手間が1440円、それを山から下ろす費用が1800円、そしてそれを運ぶ費用が1800円…ということで、上記金額は1本の木を山から搬出して製品化するまでの費用である。アルバイトの時給を考えれば、いかに山を守る人たちの賃金が低いか、ということに気付く。
森林施業体験会
  そして、山の持ち主も伐採した後に植林もしなければならない。現在、苗木に対する補助金はあるということであるが、これまで述べた工程についての補助金はない。そうなれば、当然、山を所有している人も、安価な木材を用いて家を建ててしまいたくなる。そうなれば、ますます放置森林が増加し、山の活性化を計って、環境に還元するどころか、環境にも景観にも悪影響を及ぼす。岩手の良さを維持し続けるためにも、今、官・民一体となってこの重要な課題に取り組まなければならない時が既に来ていると私は思う。
(設計事務所代表)

『喫茶店の風景』 リレーコラム 都市の鼓動 第48回 

                         中澤 昭典 (技術士)
先日、何故か思い出したようにシャンソンが聞きたくなって葺手町の「六文儀」のドアを開けた。シンプルにレトロな店内の雰囲気でコーヒーを口にするのは、至福のひとときであった。私は特にシャンソンが好きなわけでもなく、六文儀も十年間に3度くらいしか訪れてはいないが、ここにこの店が存在しているということが、街の風景を豊にしてくれているような気がする。
私の住む界隈には、個性的な喫茶店が多い。
家庭料理の「ひだまり亭」、蔵のギャラリー「一茶寮」、街の隠れ家「ヌック」と「ダン」、自家焙煎と個展の「クラムボン」、レトロな蔵「車門」、紅茶の店「しゅん」、猫の「シャトン」、大型スピーカーのある「モリタ」、ジャズ喫茶「ダンテ」・・・・。

団塊の世代の最後尾に位置する我々の少年時代には、映画館の幕間には喫茶店の広告が流れていて、「喫茶店」にはある種怪しい憧れがあった。
上京して、御茶ノ水界隈のクラシック音楽が流れる洋館造りの喫茶店で飲んだ苦いコーヒーの味は、初めて都会の文化に触れたような、今でも舌に残る青春の思い出である。
その後喫茶店にも慣れると、仲間とたむろしながら、政治や社会に対する空論を談じる場所ともなった。
社会人になって忙しく時間に追われるようになると喫茶店から足が遠ざかっていたが、ブラックコーヒーの味がわかる歳になって、また喫茶店が恋しくなってきた。

喫茶店とはコーヒーを飲ませる店であるが、客はコーヒーを飲む目的だけに行くのではない。コーヒーを飲みながらそこに漂う時間と空間に対して代金を支払うのだ。だからコーヒー一杯に400円も払うのである。いや、たった400円でゆったりとした贅沢な時間を買うことができる、私にとってはお得な買い物である。
私は商店街を歩いていて喫茶店に入るとき、訪ねた家の玄関先から奥の間に通されたような感覚を覚える時がある。
喫茶店とは、街が客人を招き入れる時の、現代の「茶室」なのかもしれない。

喫茶店にはそれぞれに、絵画が飾られていたり、クラシック、ロック、ジャズなど好みの音楽が流れていたり、本や雑誌や新聞が置かれていたりする。窓からの街の風景を眺められたり、さらには気が合う店なら、様々なまちの情報が得られ、時には政治談義もできる。喫茶店とは街角の文化なのだ。

世の中は益々忙しくゆとりが無くなってきているように感じるところであるが、たまにはゆっくりとコーヒーの香に包まれて、喫茶店の風景を味わう心の余裕を持ちつづけたいものである。
(写真は喫茶店「一茶寮」)
一茶寮  48回



『まちなかのバス駐車帯』 リレーコラム 都市の鼓動 第47回 

            NPO都市デザイン総合研究センター副理事長 寺井良夫

盛岡のまちなかには道路を利用したバスの駐車帯が3か所ある。中の橋下流側で岩手公園と中津川の間の道路、岩手公園の菜園側で公園下の道路、岩手県民会館と中津川の間の道路である。こうした路上にバス駐車帯を設ける方法は、土地に限りがあるまちなかに駐車場をあみ出すための苦肉の策ともいえるが、やはり本来あるべき姿ではない。
中の橋の下流側にある駐車帯は、至極便利な場所にあり利用度も高い。しかし、この場所は、岩手公園、中津川、赤レンガの岩手銀行の3点セットの景観が得られるところで、盛岡のまちなか観光において、もっとも重要なビューポイントといえる場所である。その大切なビューポイントのまんなかに観光バスが何台も何台もデンと居座り美しい景観を台無しにしている。ビクトリアロードと名付けた散策路のコース上にも位置し、できるだけ車の往来を抑えてゆっくりと歩ける道にしたいはずのところでもあるが、駐車帯を確保するために歩道はわずかな幅しかない。
 公園下の駐車帯も景観的にはマイナスである。岩手公園の城跡は石垣の美しさが自慢であるが、その石垣をもっとも際だたせて見通すことができるのがこの場所であるのに、観光バスがこの場所を占拠してしまうと、その景観もぶち壊しである。
 県民会館脇の駐車帯も同様である。中津川沿いの景観を阻害しているうえ、中津川右岸側の散策コースの魅力を損ねるものとなっている。
 岩手公園にしても中津川にしても今はまだそこそこの観光資源である。これをピカイチの観光資源に仕立てていくためには、こうした部分の改善を重ねながら徹底的に磨き上げていくことが重要である。
 道路上のバス駐車帯は景観的な問題に加え、交通安全の確保や交通ルールの徹底という観点からも決して好ましいことではない。駐車車両の前後は交通事故の危険性が高い。道路上に駐車しているバスを目にした他の一般ドライバーには、まちなかでの路上駐車が許容される都市だと誤解されかねない。公園下のバス駐車帯については、自転車の安全な通行を確保するためのブルーゾーンの設置を妨げる結果ともなっている。
 まちなかにお客さんを呼ぼうと思えばバスの駐車場は不可欠である。しかし必ずしもバスの駐車場をまちなかに設ける必要はない。乗客にはまちなかでバスから降りてもらい、観光を楽しんでもらっている間、バスはどこか離れた場所で待機してもらえば問題ない。安全に乗降できる場所さえ確保しておきさえすれば済むのである。バスの駐車場がまちなかから500mや1km程度離れていたとしても不便になることはない。その程度のエリアなら未利用低利用の公有地や民有地を確保することもさほど難しい話しではないと思われる。
岩手公園のヒマラヤシーダーの伐採問題も観光バスの駐車場確保がひとつの背景となっているが、まちなか観光全体を考えていくためにも、観光バスの駐車場対策について根本的な取り組みが求められる。
公園下のバス駐車帯a 中の橋下のバス駐車帯a 県民会館脇バス駐車帯a
47回



『歴史文化施設と観光施設』 リレーコラム 都市の鼓動 第46回 

                          竹原 明秀 (岩手大学環境生物学教室教授)
 昨今,旧県立図書館前にあるヒマラヤスギの伐採が問題視されている。盛岡市では旧県立図書館を歴史文化施設に改修するとともに,施設利用の促進のためには開放的な周辺環境を創出する必要があるとしている。そのために樹齢40年の並木をすべて伐採しなければならず,既に決定していることとして処理するはずであった。しかし,多くの方々から慣れ親しんだ景観が破壊されるという理由で反対が起こり,最小限の伐採となり,今後の検討課題とされた。
さて,ここで問題となることは伐採そのものであるが,実際にはこれまで行われてきた樹木管理が適切であったのか,事前に情報が公開され,議論を経たのかなど,幾つかあると思う。そもそも人間が植えた樹木は十分な管理が必要であり,植えっぱなしが一番,問題である。毎年のように生じる落葉落枝の処理は,経費や手間が掛かり,予想以上に大変な苦労である。しかし,将来,どのような樹形に仕立てていくのか,枝打ちをどのようにしていかねばならないのか,明確な考え方はあったのだろうか。これまで,都市の樹木に関する伐採や剪定にまつわる話題が幾つもあった。開運橋橋詰のメタセコイヤ,岩手大学のユリノキ,飯岡のエゾエノキ,あるいは仙台市青葉通りのケヤキ並木など,シンボルとされる樹木や並木ほど,注目度が高く,また行く末が心配されてきた。
仙台市青葉通りケヤキ並木の場合,市営地下鉄東西線の建設工事のためにイチョウ1本,ヒマラヤスギ18本とともにケヤキ77本を撤去するが2002年に決定した。ここでも多くの市民を巻き込み議論が展開し,早急,仙台市は「青葉通ケヤキ並木などに関する市民意識調査」を市民1万人強に対して実施し,その結果をホームページ(仙台市建設局百年の杜推進部百年の杜推進課)で公表した。それによると回収率は全体で60.1%と高く,関心が高いことが伺える。回答内容はケヤキ並木へは58.5%が「一部移植・一部伐採」,22.7%が「すべて移植」であった。これらを受け,さらなる議論結果,最終的に17本を移植し,27本を伐採することになった。この際,移植費用の負担問題にまで議論が進み,多額の移植経費に対して議会や市民からの賛同が得られず,市費で7本の移植となった。市当局と市民の痛み分けという結果で,2007年に決着した。
このような議論を盛岡でも行う必要があったのでないか。
さらに視点を変えて改修される施設を考えてみたい。盛岡市は歴史文化施設=観光施設と考えているようで,南部家の宝→歴史文化施設→大型観光バスの乗り入れ→観光客の増加→観光施設→経済的に潤う,という図式がありきか。果たして歴史文化施設が観光施設になりうるのであろうか。盛岡市には南部家の貴重な資料が保管されている。これまでに公開されなかったものも多いと聞くが,歴史・文化の公開が観光(客の増加)につながるという話は短絡しすぎていないのか。これからの観光は大型観光バスではなく,脚や銀輪でめぐる地元発信型「まち歩き」といえる。そこには箱物の前に行わなければならないことがたくさんある。ヒマラヤスギの管理もまたしかりである。
県立図書館前

『城郭と都市』 リレーコラム 都市の鼓動 第45回 

                                 佐々木 栄洋
 長い年月を経て形成される都市は、古くから現在に至る人類の生活の営みを象徴するものであり、わが国においては、都道府県庁所在の47都市の70%にあたる33都市が近世城下町を起源としている。盛岡市もその一つである。
 これらの城下町起源の都市において、城郭という歴史的文化遺産を保存し活用する取り組みは重要な意味を持つ。これは、城郭整備が地域社会にもたらす経済効果に期するほか、城郭が個性豊かな地域社会の発展、地域の芸術文化の創造の一役を担い、日本独特の美を持つ城郭景観が都市に個性と奥行きを与えるものであるからである。
 しかしながら、これまで行われてきた天守閣の復元、石垣の修復などの城郭整備は、中心市街地活性化方策として、都心部の新たな魅力を創出する都市公園、集客力を高める観光資源といった側面に重点がおかれた事業が多く、その整備効果は、観光行動などによって発生する観光収入、城郭への訪問、関連施設の利用など、直接的に収益が得られる効果に注目して分析される傾向が多かった。また、城郭の保全と活用に対する取り組みは、城郭の天守閣、城門、堀、石垣等の現存率が高い都市に多くみられ、現存率の低い都市では、歴史的文化遺産として城郭整備を行うための情報が少ないなどの理由から、行政、地域住民のコンセンサスが十分に得られているとはいいがたく、城郭の保存、活用方法を具体的に示せずにいることが多い。
私たち県民の拠りどころである盛岡城は、現在、盛岡城跡公園として保全され活用されている。年月か経つほど盛岡城の価値が高まることはいうまでもなく、城郭と都市の関係性を総合的に捉えて、長期的な視点に立って今後の保全と活用について議論が高まることを期待したい。
それにかかわる話題の一つとして、日本都市計画学会に掲載された論文※を紹介したい。これは、史実に基づき天守閣を復元した福島県白河市にある白河城(別名小峰城)を対象に、城郭と都市の関係性を示す指標である城郭景観の視距離に着目し、ヘドニック・アプローチという手法を用いて天守閣復元を伴う景観整備効果を推定し、城郭の整備効果が地価に与える影響を明らかにした研究である。この研究によると、天守閣復元を伴う城郭の景観整備効果として、天守閣から500mの範囲にある近距離景観領域では3,321(円/㎡)、500m~1,600mの範囲にある中距離景観領域では1,583(円/㎡)地価が高まったという結果が得られた。
決してこの結果のみで城郭の景観整備効果を評価することはできないが、様々な視点から客観的な情報を得ることは有益な議論を可能とする。盛岡城の保全と活用は、盛岡市民・岩手県民にとって重要なテーマである。

※佐々木栄洋・小笠原崇・赤谷隆一・安藤昭・南正昭;視距離を考慮した天守閣復元を伴う白河城の景観整備効果の推定,都市計画論文集pp.709~714,社団法人日本都市計画学会,2003年10月
45回

『「都市計画」から「まちづくり」へのパラダイムシフト』 リレーコラム都市の鼓動第44回 

                                       長澤 幹 (技術士)
 わが国都市計画法制の源流である「東京市区改正条例」(1888)は、三つの特徴を都市計画ヘビルトインした。
すなわち、対象論としては「既成市街地における後追いインフラ建設」、方法論としては「全体プラン無しの個別事業等の決定」、体制論としては「中央集権・官僚主導型の都市計画だ。
 同条例をうけて、市街地の総体的コントロールを目ざした「都市計画法」(1919)は当時、世界的にみても先進的な都市計画制度だった。
しかし同法は、その後「震災復興→戦時体制→戦後復興→高度成長」という時代の変化の中で「官によるインフラ事業」という性格のまま化石化していった。
ほぼ同時に出発したアメリカの都市計画が、自治体の公共事業・土地利用・空問構造を切り口とする社会的コントロール・調整の政策技術へと大きく進化したのと対照的である。
戦後の高度成長期には、急激な財政膨脹の下で「都市計画が都市を破壊する」という事態となり、再び市街地の総体的コントロールを目ざして「都市計画法」(1968)が改定された。
 他方、戦後の自治体民主化の中から「まちづくり」が生まれた。六〇年代の高度成長期には、再開発、公害反対、区画整理反対、歴史環境保存、地域住民要求などの各種の市民住民運動が全国各地で展開された。
譬喩的にいえば六八年法とまちづくりとは、共に高度成長が生んだ双子の兄弟なのだが、一方は国会の赤絨毯で生まれ、他方は全国各地でホームレスとして生まれた。
 そして今、このまちづくりは市区改正条例以来の都市計画のパラダイムシフトに挑戦を続けている。流れは「インフラ建設から住環境整備ヘ」「個別具体の都市計画からトータル・ビジョンヘ」「集権・官中心型から分権参加型へ」等である。
 問題を一点に集約すれば都市計画における「公(public)」の位置づけにある。つまり「公=中央政府」から「公=自治体+市民社会(住民・NPO等)」の都市計画へ如何にして進化させるかという点になる。
 分権の制度論のポイントは「都市計画制度の全体構造の分権化」と、「その制度内での技術・手続きの分権化」を明確に区別すべき点だ。
多くの提案は後者のみに絞られているようだが、全体の分権なしに真の「都市計画の分権」は実現できない。
 「公としての市民社会」の重要なキーマンは、都市計画ブロフェッション、つまり職城を超えて職能を同一とし、都市計画技術を実質的に担う専門家集団の存在が重要になる。
わが国は、確立したブロフェッション無しに都市計画を行っている世界でも特異な国だ。
これが可能なのは、都市計画が空間技術よりは「工学技術」「技術よりは行政事務」の方向へと退化しているからだ。
 このような状況の下、市民の視点から都市計画制度を構想し、次の一〇〇年に耐える市民主体の都市計画制度への変換が,今社会的に求められている。
長澤-図  44回


『6インチ・ルール』 リレーコラム都市の鼓動第43回 

           NPO都市総合デザインセンター理事 中村 正

長女がUSAペンシルバニア州に行って5年が過ぎた。
グリーンカードも取得し、ドイツ系土着人と結婚。今は人口3万人位のエフラタという田舎町に居る。
どうやら永住を決めたようである。
その娘と話をしていて面白いことを知らされた。
道路に面した庭の草丈が6インチ(約18㎝)を越えると「草刈りをするように」との張り紙をされるというのである。またバーベキュー跡など何日も乱雑にした侭にしていると環境監視委員(指導員)が「町の価値に傷が付きます」と注意して歩くというのである。
景観条例のようなものがあり美観を守るためのルールだとのことだった。
そしてこれらを借家人などに対しても実効性のあるものにしている1つに「家賃の中に除雪や草刈りの費用負担について家主との間で取り決めができる」ことがあるというのだ。                         
家の前の歩道の除雪や、道路に面した庭の除草など「町の価値に傷を付けないためのコミュニティー活動に係わる事柄は基本的に家主の責務で、家賃に含まれている。借家人がそれを行う場合は家賃の減額を申し入れることができ、多くの場合認められる(勿論当初契約の段階で盛り込まれるケースもある)」と云うのである。
いかにも契約社会と云ってしまえばそうだが、ここではアメリカ人気質の一つに「誉められるのがとりわけ好き」があるらしく、「きれいな町に住んでいますね(お家をお持ちですね)」「美しい町ですね」と云われるのに弱いようだ。とのことに留めたい。
翻って私たち日本人は、やっぱり「誉められるのが好きで、美しい日本、落ち着ける郷土」などに弱い。
「弱い」は「価値を認めている証」といって良いと思う。
盛岡では住宅団地における空き家、空き地の増加が様々な面で問題を孕み「空き家は不安だ」「やぶ、荒れ地が見苦しい」等一部は顕在化しつつあり、このまま手を拱いていると全体の評価が下落してしまいそうだとも言われている。
空き家、空き地をあまり利に結びつけた活用に資することに執着せず、単純に「きれいにする、これまでを保つことに取組み、残る住宅地の価値を傷つけないようにする」活動を始めてはどうだろうか。地道な活動が、意外に「ゆとりある美しい住宅地」として再評価される契機につながるかもしれない。
不在地主等の空き地は自治会等による協働作業、あるいは委託(不在地主等には費用負担を求める)といった方策を工夫しながら「団地としての価値、そして個々有の住宅の価値を保つ、あるいは向上させる」不断の活動の一つとして「6インチルール」は参考になる事例と思えるが。
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『[盛岡クリスマスツリー」の運命』 リレーコラム 都市の鼓動 第42回 

                             服部尚樹

 どんな都市にも、目印になるような建築物や空間があります。ランドマーク言います。
東京タワーがその典型です。ランドマークは都市の象徴的な「顔」となって、住民に親しまれ、来訪者に強い印象を与えます。
 盛岡市のランドマークは、何でしょうか?マリオス?石割桜?
私にとってのランドマークは「岩山」です。街から見ると、さほど高い山ではないですが、登ってみてビックリ。岩手山と正面から向き合っているくらい、高くて大きな場所に感じてしまいます。
さて、マーケティングの理論としてとっても大事なことがあります。それは、「他所(よそ)には無いもの」を売り出すということです。地場産品を開発しているのは、そういうことですね。観光都市として街を「売り出す」時も応用できます。「よそには無い盛岡」を発見して強調することです。そして、そこにストーリーを付けてあげる。
たとえば、中ノ橋から見る景観が「よそには無い盛岡」です。中ノ橋から上流のほうを見ると、遠くに形のいい山が見えます。啄木のふるさとの山、姫神山でした。中ノ橋から下流のほうを見ると、遠くに赤林山などの紫波三山が見えます。私はこの景色が好きです。見ていると不思議な気がします。それで、はたと思い当たったことです。江戸時代も縄文時代も、ここで暮らした人は同じ景色を見て来たはずです。ここだけは景観の破壊がないからです。ということは、今の人と大昔の人が、ここ中ノ橋で、つながることができる。「太古の人とつながる橋・中の橋」。
さらにもう一つ、「よそには無い盛岡」が近くにありました。旧県立図書館の前にある並木です。この並木は、県庁前の並木とならんで、盛岡市の自然遺産だと思います。東北の都市で、これだけの並木を中心市街地に持っている街は他にあるでしょうか?以前、秋田に行った時、市街地に並木がほとんど無いのを見て、盛岡はすばらしいと思いました。
ところが、最近の報道で知ったのです。この並木が伐採されるそうです。理由は、外構を開放的にすることで施設を観光客の目に触れやすくして集客効果を高めることが狙い、だとか。マーケティングの観点からなんですね。でもね、樹齢40年の並木ですよ。歴史文化施設ならその歴史遺産を利用しない手はありません。何より、中心市街地にあるこの並木は、観光客を驚かせ、心をなごませます。それに、施設の集客効果は、施設そのものの魅力を高めることが一番大事です。施設の前の自然遺産をなぎ倒してでも、施設の姿を見通せるようにすることは、逆に、観光客を失望させるかもしれません。市街地の保存並木をあっという間に伐採してしまった街の残酷さに。知り合いが言いました。「片手に花のバスケットを持って、もう一方の手には、チェンソーを持っているのか」って。
大型観光バスの進入路を作るためとの説明もあるようですが、知り合いの主婦が言いました。「すでに川沿いの駐車スペースに観光バスを何台も乗り付けている。」確かに修学旅行バスをよく見かけます。もっと必要ならば、そちら側から回り込めば正面に何台も停められるのではないでしょうか。開館は平成23年度だというのに、ウサギさん、そんなに急いでどこへ行く?
大雪の日にあの並木を見たとき、シビレるほど美しかった。並木は、クリスマスツリーになっていました。
盛岡のもう一つのランドマークは、旧県立図書館の前にある並木なのでした。あれは、名勝「盛岡クリスマスツリー」なのです。
今年のクリスマスの日に君が生きていたら、リボンで飾ってあげますね。もしもダメだったらゴメンね。(行政書士・マーケティングアドバイザー)
42回   中の橋上流  中ノ橋から見える姫神山 (2)
 盛岡クリスマスツリー
     

『盛岡の街造りデザイン報告、その2、盛岡駅前広場修景について』 リレーコラム都市の鼓動第41回 

                               建築家 山添 勝
原稿を書くにあたり、記録を見ておどろいた。駅前広場修景の作業に関わり始めたのが昭和55年、広場が完成し新幹線を迎えたのが翌56年である。以来ほぼ30年の時がすでに経過した。時の流れの速さを実感した一瞬である。
その間広場の周囲の景観は一変した。駅舎そのものも数度の改修を経て中身が一変した。
新幹線車輌のデザインも素朴なスタイルからドナルドダックのようなこれ以上はないと思われる超流線形に変化した。あまりに未来的で私の好みには合わないけれど・・・。それらを考えるとなるほど30年の時の流れがやっと納得できる。
私が駅前広場修景に携わることとなったいきさつは、駅前通り修景の設計に携わった際、駅広について提案もあわせて行ってきたことなどから、当時の盛岡市デザイン委員会の推薦を得たことによる。
駅前広場修景は盛岡市にとって新幹線を迎えるための満を持した事業である。市民に、そして盛岡を訪れる人たちに喜ばれる空間をどうしても実現させなければならない。それは事業に関連する盛岡市、そして当時の国鉄にも共通した思いで、度重なる協議は非常に中身の濃いものであったことが思い出される。
デザイン委員会から与えられたテーマは「水と緑」。盛岡にふさわしい真に単純明快なテーマであった。私はそれに加えて城下町盛岡にふさわしい風格をもつ広場を意識していた。
サークル型のバスバースを含む広場のアウトラインと広場の正面に人工滝を設置することはすでに決まっており、私の役目はそれらの全てをテーマに沿ってデザインすることであった。
中央広場の駅寄りほぼ半分は地下商店街が既存する。したがってその上部をペーブされた広場とし、緑のテーマに沿った植栽ゾーンはそれを避けた位置にまとめてレイアウトした。水を象徴するカスケード(人工滝)は位置が指定されていたが、地下商店街の既存構造の上に設置することからそれとの整合を考慮した検討が必要であった。石の彫刻のサケが遡上する中津川のせせらぎを模した水盤を既設の地下柱で支え、その一辺を滝とするデザインが生まれた。
緑のゾーンは盛岡城址の石垣をモチーフとし、姫神山の子桜石の石組で縁取ることとした。城址の石垣には石を割るためのタガのあとがいたるところに見られ、それがなんともいえない味わいを醸している。広場の石組にはわざわざカッターでそれらしく模様をつけた。職人の手の跡を感じさせたかったのだが、後で不良品を使ったのでは、とクレームがついたのには驚いた。
広場の照明は一箇所にまとめ、照明塔としてシンボライズする。塔の先端に大小2個ずつの照明BOXを固定した。親子4人の標準家族になぞらえ、この塔を岩手を象徴する「北の家族」とひそかに命名した。
塔の直下にはそれまでの広場の象徴であった啄木碑を移設し、また岩手を代表する観光地のマップをデザインして広場のアクセントとした。「北の家族」が岩手を明るく照らす、というストーリーである。
バスバース広場の地下に降りる階段は円錐状の形とし、楕円状の広場にマッチさせ、その天蓋も円形とした。それはあたかも広場に降り立ったUFOに見えるかもしれない。
階段を降りきったホール空間の壁面は村上善雄氏作のレリーフで構成された。村上さんは建築空間とのバランスを考慮し、みごとな答えを出した。
バスバース、タクシー乗り場の待合上屋は費用の点からもっとも簡素な形とし、耐候性鋼というメンテナンスのかからない材料で作る。広場全体を構成する他の素材も耐候性鋼、銅、鋳物等出来るだけ耐久性にこだわった。
全てが完成し、オープニングを迎えた。市長がカスケードのスイッチを押し、滝が一気に流れ出した。集まった人たちが一瞬どよめいた。私はこの広場が皆に受け入れられると確信した。
30年経過した。さすがに各所に痛みや材料の劣化が目立つ。各種の統一感に欠けたサインが気になる。なかでも広場のシンボルでもある照明塔に取り付けられた電飾用のぶざまなリングは如何なものか。カスケードの舞台に安易に並ぶ安っぽいプランタン等々、当初の風格ある広場というデザイン概念と少々異なる雰囲気になっていることを残念に感じる。
盛岡駅前広場   盛岡駅前広場2   41回

『都市の「リスク/ベネフィット考」』 リレーコラム都市の鼓動第40回 

                             中澤 昭典(技術士)
環境問題を論じる時「リスク/ベネフィット論」という手法がある。
有名な「サッカリン論争」では、サッカリンに弱い発ガン作用があることから、これを使用禁止にしようとしたところ、サッカリンを使わず砂糖を使用すると、糖尿病や肥満のリスクが増大するとの反論が起り、結局サッカリンは今でも使用可能となっている。
また、「アメリカでは、一回横断歩道を渡るごとに、十三秒寿命が短縮していくと計算されている」と聞いたことがある。歩道橋を渡ればそのリスクは回避できることになるが、車に跳ねられない十三秒の寿命短縮回避というベネフィット(利益)のために階段の上り下り選ぶか、思案のしどころである。

さて、都市の問題には様々な「リスク/ベネフィット」が存在する。
ゾーニングという機能分離型都市計画による、効率化というベネフィットが、単機能のニュータウンを造り、一斉高齢化、空家の増加というリスクを生み出した。
京都や札幌など碁盤の目のような都市計画は、分かりやすいというベネフィットの反面、住んでいて味気なく面白みに欠けるというリスクを内在する。
市街地の車の混雑解消というベネフィットを得るためにバイパス道路を建設すると、バイパス沿いにロードサイト大型店の立地を誘発し、市街地の空洞化を招くというリスクを負うことになった。
洪水というリスクを防ぐためコンクリートの直線的な川を造ると、水辺環境というベネフィットを低下させる。
「街に緑を」というベネフィットの向上は、落ち葉対策というリスクも向上させる。

人間はベネフィット(利便性)を追い求めることには熱心であるが、その裏にあるリスク(不利益)を取る事には当然ながら関心は薄い。しかしベネフィット(利便性)の追及には必ずリスク(危険性)もワンセットでついて回る。

盛岡の中心部を流れる中津川の川沿いの道路には柵がほとんど無い。我々市民は、道路から河原に転落するリスクを容認することで、川沿いの素晴らしい景観を享受している。

 都市の問題を解決し、快適な生活環境を造り出す為には、様々なリスクを軽減することはもちろん必要であるが、しかし、リスクにばかり目を奪われて、これを無くそうとし過ぎると、整然として、安全で、便利で、効率的だが、窮屈で、退屈で、味気なくて、住む気がしない街をつくりあげるリスクを負うことも認識しておかなければならない。
中津川70%   40回

『都市の秩序Ⅲ「都市とは何か」』 リレーコラム 都市の鼓動 第39回 

           NPO都市デザイン総合研究センター理事 安藤 昭
                         (北海商科大学教授 工博)  
 かなり多数の都市を含む国や地方における都市の人口規模とその大きさの順位とのあいだには、都市の順位・規模法則(rank-size rule)と呼ばれる法則(明確な秩序)があることについては既に都市の秩序Ⅰにおいて述べた。
 都市群の間にはどうしてそのような秩序が存在するのかを問う前に、ひとまず、都市の秩序Ⅲとして“都市とは何か”、つまり、都市の定義について述べる。 
 従来から、都市については多くの著名人の定義があるが、そのいくつかを列挙すれば、以下のように示される。
  ①神は田舎を創り、人は都市を創る(ダンテ:Dante A)
  ②村落のうち、周囲に城壁をもつものを都市という(マウラー:G.Maurer)
  ③市場、堡塁、司法権、政治的独立、種々の特権—こうした特徴のすべて    
   が都市を構成する(ペロー:Charles Perrault)
  ④都市の経済的本質、それは市場に立脚した集落である(マックス・ウエ
   ーバー:Max Weber)
  ⑤都市とは市民の使用に供する一目的物である(ル・コルビジェ:Le
Corbusier)
⑥2000人以上の住民をもつ集落である(国際統計学会議)
 ①は、中世と近世の橋渡し的性格の都市であるルネッサンス時代(13世紀頃)の都市に対する詩人ダンテの都市の定義である。この都市の定義には、当時の都市の見方が端的に表われていて、人間は都市づくりの主体であり、人々の自由で強い精神が都市を創造すると喝破している点興味深い。②は、城壁という、都市の重要なひとつの立地因子に着目して都市を定義しているのに対し③は、都市の複数の立地因子に基づいて定義したもので、ベローの定義はマウラーの定義より詳しいものになっていることが解る。また、④と⑤の定義は、それぞれ経済学者と建築家の都市の定義であり、専門的見地からの独善的な定義であるようにも思われる。一方、⑥は人口規模に基づいた都市の定義であるが、この値はそれぞれの国の事情によって大きく異なることが考えられる。
 以上のように、著名人の都市の定義には時代背景や専門的見地が色濃く反映しているものが多く、3千年にも及ぶ記念碑都市(歴史のある時点において記念的な役割を果たし、その痕跡を内に含みつつ生存しつづけた現存の都市またはその一部をいう)の盛衰を都市デザイン史学的態度をもって時間的、空間的に把握し、その本質を記述したものは少ないといえる。ところで、筆者は、これまで、約4万年前において既にその進化を止め、既述の記念碑的都市の成長発展の潜在力と駆動力となってきた人間の脳に着目し、人間の脳機能と心と都市機能のアナロジーの検討から、螺旋階段的な「都市の胎生的進化モデル」を描き出し(1984年)、これを基に、都市の本質と存在原理ついて検討してきた1)。 
 筆者が、「都市とは人間(集団)の真の存在のための胎生的進化の過程における風土の様相である」1)と定義するのは、既述の都市の胎生的進化モデルに基づくところが大きい。ここに、胎生的とは子供が母体内で養分を受け、ある程度の発達を遂げたのちに生まれるように、古代の都市から中世の都市が、中世の都市から近代の都市が、ある程度の進化を遂げたのちに生まれることを意味し、風土の様相とは自然的・歴史的・文化的土地の状態、つまり地・人一体の有様を意味している。
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参考引用文献
1) 安藤昭・赤谷隆一:感覚統合理論による都市景観設計の体系化、
       土木学会論文集No.653,Ⅳ-48,2000
39回

『歳を重ねて変わり行く「フロー」の街づくり』リレーコラム 都市の鼓動第38回 

                            中澤 昭典 (技術士)
日曜日の朝、散歩がてらに「大通り」まで足を伸ばしてみた。
モーニングサービスのサンドイッチとアメリカンコーヒーを口にしながら、二階の窓から通りを暫く眺めてみた。
久し振りにゆっくり眺めると、大通りの街もひと昔前に較べ、かなり様変わりしてきた。通りに面している店は、衣料品などの「ものを売る」店から、カラオケ店や居酒屋など「サービスを売る」店に変化してきている。夜になると、今ではサラリーマンよりも若者達の姿が優勢となり、以前とは違う活気を見せているようだ。

盛岡のもう一つの繁華街「肴町」界隈は、最近年配の買い物客が目につく街になった。
私が10代の頃には、肴町界隈は教科書と参考書を取り扱う東山堂があることもあって若者の街であり、川徳と松屋という二つのデパートと老舗の店が軒を連ねる県内一の繁華街だと思っていた。

大通りは商店街から盛り場へ、肴町は老舗の商店街から近所の買い物街へ、時代と共に変化してきている。

さて、都市計画は、明確な意図の基づいて、交通計画やゾーニング、施設の配置計画などが行なわれ、これに沿ってブルドーザーやクレーンがコンクリートを積み上げて都市を形づくる。
一方街は、必ずしも誰かの意図するところに沿って出来上がってくるとは限らない。ある店の醸し出すムードや、そこから派生する流れによって街の形、空気が作られてゆく。そしてそのような自然発生的に時間と共に積み重ねられてきた街は、人の気持ちを落ち着かせ、そこに人は引き寄せられる。
大通りも肴町も、今の状況を意図して都市計画がなされたわけではないと思うが、今となってはこの形が街に馴染んできているように思える。
人も歳を重ねて変化してゆくように、街も時間と共に、生れ、育ち、歳を重ね、衰え、そして生まれ変ってゆくものであろう。

先の見えにくい今の時代にあっては、これまでのような「計画」を策定してその大きな方向に沿って街づくりを進めることだけではうまく行かないような気がする。
「店」や「客」や「人通り」や「住民」や「時代」などの個々の動きの積み重ねの中で歳相応の街を動かしてゆく、すなわち、「ストック」ではなく「フロー」の街づくりという考え方も必要なのではないだろうか。
肴町[1] 38回

『移り行く時代に残したいもの』 リレーコラム都市の鼓動 第37回 

                       鷹觜 紅子
 私は、盛岡市内で設計事務所を営んでいる。
 その男性が訪ねてきたのは、ちょうど一年位前のことである。若い夫婦の住む家を、母屋に隣接して建てたいと言う事であった。私は日にちと時間を約束してその場所を見に行った。
 そこには先代が建てた、マンサードの農業用の倉庫があった。先代は大工さんだったそうである。それを壊して、その位置に新しい家を建てたいと言う事である。
 下屋を支えている曲がりくねった梁。今では、なかなか手に入らない太くて長い梁。そして、庇を受ける肘木の代わりに使われていた手造りの鉄細工の金物。この頃マンサードの建物も姿を消し始め、このまま解体するのも忍びない話である。
 そう思っていた時、一緒に行った木のコーディネーターが、この建物は、栗とエンジュを使った建物だと言い出した。私には長い年月を経て黒くて汚れた木材にしか見えなかったが、専門家の目には、宝石のように写ったらしい。
  この建物が建てられた時代は、家の近隣にある木を伐って建物を建てていたという事である。 
 エンジュはなかなか径が大きくならないけれども、丈夫なので使われたのであろうということだった。
 私は、先代が建てたこの建物の木材を使って新しい家を建てようと思った。テーマは、田舎の生活が楽しくなる家。そして木のコーディネーターから、昔からエンジュ・桑・ホウの木を使った家は縁起がいいとされている。それは、「家中果報」いえじゅうかほう(ちょっと訛って言えばその様な発音になる)と言う事で、サブテーマは三種の木を用いた果報のある家。そして最初にこの地に家を建てた時のように、その場所から見渡すことの出来る範囲にある山の木をたくさん使って家を建てようと思った。
 今、何故、地域の木材を使って建物を建てるのか?私は十年以上その様な家づくりをしている。その中で私が感じ、思っているのは、その家で生活する人と同じ空気を吸って、同じ水を飲んで育った木を使うのが、人にも建物にも一番優しいのではないかということである。
 そうこうしている内に、家が完成した。下屋に使われていた曲がりくねったエンジュの梁は、又新しい下屋の梁として使われ、太くて長い梁も下屋の桁として使われ、栗の根太は、外の面格子として再利用した。
 新しい建物と一緒に、先代の心が少しでも残ったのではないかと信じている。
 私たちの仕事は、古い建物を壊して新しい建物をただ建てて行くだけではなく、そこに生きていた人々の歴史もどこかに残していかなければならないと思っている。私はこれからも、色々なものを守って行きたい。
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